大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉘

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歴史編

 第28回は、小沢治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)です。日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校37期生。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めました。(写真①②③④)

 小沢治三郎中将は、昭和17年10月26日に行われた南太平洋海戦以後、負け続けた帝国海軍の中で、極めて優秀な指揮官であったにもかかわらず、戦機に恵まれなかった不運の将軍でした。昭和19年に行われたマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦の指揮官であり、最後の連合艦隊司令長官としても知られています。米軍の評価は極めて高く、連合軍が恐れた日本の五人の提督(小沢治三郎、山本五十六、吉川潔(R3年2月号)、山口多聞(R1年10月号)、草鹿龍之介)の一人です。

 小沢治三郎中将は明治19年、宮崎県児湯郡高鍋町で元高鍋藩士の家に生まれました。少年時代から柔道で鍛えており、因縁をつけてきた不良を、橋の上から投げ飛ばしたとか、喧嘩で日本刀を振り回したといった逸話が伝わっています。

 明治42年(1909)、海軍兵学校卒業。第一次世界大戦時には、第二特務艦隊の駆逐艦乗組となり、地中海に派遣されました。帝国海軍の提督の中で、この欧州派遣は貴重な戦闘体験となりました。海軍大学校で戦術家の教官を務めた際には、生徒たちに「独創的な戦法を研究せよ」と説きました。 

 また、日本の国益を考え、セクショナリズムに陥りがちな陸軍と海軍が不仲であったことに苦言を呈し、双方が交流することの大切さを常に説いていました。不仲をむしろ煽っていた将官が多い中、その視野の広さは海軍内でも随一でした。

 その後、大東亜戦争開戦直前まで第一航空戦隊司令官を務め、航空兵力を集中させた航空艦隊の編成を提唱、このため「空母機動部隊の生みの親」ともいわれています。この思想と実績が後の真珠湾攻撃に繋がります。



 開戦時はマレー部隊指揮官兼南遣艦隊司令長官。マレー作戦の成功に大きな功績を挙げ、陸軍の山下奉文大将(R2年4月号)の信頼を得た小沢中将は、評価が高まり、依然不仲であった陸軍とのパイプ役を期待されることとなりました。陸軍の今村均司令官(R1年9月号)が行なったジャワ上陸作戦にも、強力な支援を送って成功させたため、陸軍からさらに篤い信望を得ました。

 しかし、小沢治三郎中将の不運は、機動部隊を用いた航空戦術の先覚者でありながら、海軍人事の序列制のため、第一航空戦隊司令のポジションを、南雲忠一中将に譲り渡さざるを得なくなったことです。真珠湾攻撃にも、ミッドウェー海戦にも、1~3次のソロモン海戦にも参加することなく、ようやく敗戦続きの南雲中将の後任として、機動部隊である第三艦隊の司令長官に就任した時には、既に開戦以来の熟練搭乗員の多くは失われており、日米の科学技術と物量の差は歴然と開いた状態でした。

 昭和19年(1944)6月、小沢中将は第一機動艦隊司令長官として、最新鋭の空母・大鳳に座乗して、マリアナ沖海戦(写真⑤)に臨みます。この戦いが大東亜戦争における天王山でしたが、日本軍の空母部隊の搭乗員の多くが練度不十分のうえ、燃料不足のため、着艦訓練を殆ど実施できず、発艦は出来ても着艦は出来ない搭乗員がいる状態でした。それに対し、米軍はおよそ二倍の兵力で、高速空母部隊を擁していました。この時、小沢中将がとった戦法が「アウト・レンジ戦法」です。敵の航空機の航続距離の外から、航続距離の長い日本軍機の特性を活かして一方的に攻撃をかけるというものでした。確かに極めて合理的な戦法でしたが、着艦もろくに出来ない練度不足の攻撃隊では、その実行には無理がありました。

 民主主義を標榜する米国では、国民が戦死することを極端に嫌いました。その米軍が敵の攻撃を無力化するために開発した兵器の中で、最も優れた兵器と私が評価するのが、マリアナ沖海戦で初めて登場したVT信管(別名:マジック・ヒューズ)と八木アンテナを活用したレーダー(電探)です。前者は対空砲火の弾頭にVT(近接)信管 (写真⑥)を組み込み、砲弾が航空機のエンジン音を感知して爆発するものです。後者は遠方からでも初弾(最初に打った弾)を命中させるほどの高性能な兵器でした。

 この新兵器VT信管と最新のレーダー網で行動を把握され、高性能艦載機によって完全に守られた米艦隊に、接近することも極めて困難となり、日本軍攻撃隊は378機を一方的に撃墜され、不名誉にも、「マリアナの七面鳥撃ち」などと嘲笑されることになりました。このマリアナ沖海戦で日本軍は空母大鳳、翔鶴、飛鷹を失い、惨敗を喫し、各地よりかき集めたベテラン搭乗員の大半を失いました。因みに米軍はこの新兵器のことを徹底的に秘密にしましたので、戦争終結まで帝国海軍の上層部が詳細を把握することはありませんでした。  

 この敗戦で、小沢中将は責任をとって辞表を提出しますが、同年10月のレイテ沖海戦(写真⑦の4つの海戦の総称)で、より苛酷な任務を命じられます。囮(おとり)部隊の指揮官でした。フィリピンに上陸する米軍に対し、小沢中将率いる残存空母部隊が囮となって、猛将ハルゼー提督率いる米機動部隊を北方に吊り上げ、その間に戦艦大和、武蔵を中核とする栗田健男中将指揮の第二艦隊が、レイテ湾の米軍泊地に突入し輸送船を片っ端から撃沈するというものです。この作戦が成功すれば、マッカーサー率いる米上陸部隊を殲滅することが出来、多くの米将兵を失った米政府が、戦争継続を躊躇する可能性も大いにありました。 

 小沢中将は指揮官として、彼我の兵力差を考慮し、乾坤一擲のこの作戦に全力を尽くし、日本の主力部隊と勘違いしたハルゼー提督の米機動部隊を完全に引き付けました。そして小沢中将は、麾下の空母をすべて失いながらも栗田艦隊にレイテ突入のチャンスをもたらしました。しかし、栗田艦隊はレイテを目前にして「謎の反転」を行ない、小沢中将たち空母部隊の努力は水泡に帰すのです。(小沢艦隊が作戦に成功したという報告が届かなかったためといわれています。)


<日米戦果の誤差>

①マリアナ沖海戦(1944年6月)・日本側戦果報告:撃沈空母5隻・戦艦1隻以上撃沈破・航空機100機以上撃墜

 米軍発表 ⇒ 沈没無し/小破・空母2隻・戦艦2隻/航空機喪失130機

 日本側損害:沈没・空母3隻、小中破・空母4隻・戦艦1隻・重巡洋艦1隻・航空機喪失476機

②台湾沖航空戦(1944年10月)・日本側戦果報告:撃沈・敵空母11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻撃沈/撃破・空母8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻/航空機113機撃墜

 米軍発表 ⇒ 沈没無し/大破・重巡洋艦1隻・軽巡洋艦1隻/小破・航空母艦1隻/航空機89機喪失

 日本側損害:航空機651機

③レイテ沖海戦(1944年10月)・日本側戦果報告:撃沈・空母8隻・巡洋艦4隻・駆逐艦12隻・輸送船5隻以上/撃破・空母7隻・戦艦1隻・巡洋艦2隻・駆逐艦1隻・輸送船46隻/航空機撃墜約500機 

 米軍発表 ⇒ 沈没・空母3隻(特攻機による体当たり)・駆逐艦3隻のみ/航空機喪失約70機

 日本側損害:沈没・空母4隻・戦艦3隻・重巡洋艦6隻・軽巡洋艦4隻・駆逐艦9隻・航空機数百機/その他被害甚大


 上記の報告の誤差、戦果把握の誤差を日本海軍上層部は戦後まで知らなかったようです。現実の戦果報告を含め、当時の日本海軍は、組織としての体を成していなかったとしか評価できない失態です。

 アジア全域では陸軍が奮闘しており、上記の虚偽に近い報告によって、日本軍は劣勢ではあるが、戦局はまだまだ何とかなるとの認識でしたが、特に上記のレイテ沖海戦での海軍の一方的な大敗で、戦争継続は最早不可能な状態でした。上記①~③の戦いで敵航空母艦を20隻以上撃沈しているとの誤った認識が、戦争継続に結び付き、結果的に113都市をB29の爆撃で燃やされ、広島に原子爆弾を落とされ、562,708名の死者と234万戸の家屋が焼失、戦後一方的にGHQに支配され、日本人としての伝統と精神性を破壊され、嘘の歴史を世界中にばら撒かれてしまったことは、返す返す残念です。レイテ沖海戦の現実を把握していれば、一刻も早く戦争終結にもっていけたはずでしたが、アジア地区で奮闘する陸軍の手前、真実を公表することが出来なかったのではと勘繰りたくなります。

 昭和20年(1945)5月、小沢中将は大将昇進を拒み、中将のまま連合艦隊司令長官に就任しました。しかし、連合艦隊の艦艇はもはやほとんど残っておらず、終戦時の混乱の回避のみが主な功績というべきものとなりました。  

 終戦の際に、小沢中将は海軍将兵たちに対して「自決」を禁止しました。第3航空艦隊司令官の寺岡謹平中将にも、「君、死んじゃいけないよ。みんなが死んだら誰が戦争の後始末をするんだ」と声をかけ、少しでも多くの命を救おうとしました。   戦後は、東京の世田谷に住み、「自分は死に損なった男だ」と生き永らえたことを恥じて、インタビューや取材を一切断り、「沈黙の提督」として過ごします。

 生活はけっしてラクなものではなく、養鶏をしたり自宅の部屋を人に貸したりして生計を立てていたようです。小沢元中将は、多数の部下を自分の指揮で失ったことへの自責の念は強烈であったようです。たまたま近所に陸軍の今村均元大将の住まいがあり(今村氏もまた自責の念から、庭に建てた狭い小屋で生活をしていました)、今村氏をよく訪ねていたようです。元部下の面倒見の良かった今村氏のもとに若い自衛官が話しを聞きに来ると、今村氏は必ず、帰りに小沢元中将のもとにも寄りなさいと言っていたそうです。小沢氏と今村氏はたまに喧嘩することもあったようですが、ジャワ上陸作戦以来の生涯の戦友だったそうです。

 小沢元中将は、戦績だけ見ると敗戦続きで、決して有能な将のようには見えません。しかし、アメリカ軍太平洋艦隊司令官だったチェスター・ニミッツ大将は、「小沢提督は敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている」と称しています。

 昭和41年(1966)11月9日没。享年80歳。その葬儀に際して、アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソン氏は、花束とともに「偉大なる戦略家で船乗りだった小沢提督の死を心より悼む。近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」というメッセージを贈りました。





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