大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑤

query_builder 2019/09/10
歴史編

第5回目は、今村均大将インドネシア独立の礎を築いた男です。(いまむら ひとし、1886年6月28 日―1968年10月4日)日本の陸軍軍人。陸士19期・陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。 宮城県仙台市出身。


 私の持つ印象では、今村均大将は軍人というよりも、むしろ人徳の備わった、信念の軍政家といったイメージで す。 陸軍士官学校への進学にあたり、寝小便に悩み、その克服のために睡眠不足になって居眠りを繰り返しま したが、努力の人であり、その人柄を認められ、あの厳しい軍隊生活の中で、教官から居眠りを特別に認められる というエピソードの持ち主でもあります。最終的にはエリート中のエリートといわれる陸軍士官学校とその中から選 抜される陸軍大学を首席で卒業されました。 小学校高学年まで寝小便を繰り返し、3枚の布団を腐らせたという武勇伝(?)を持つ私は、昔この今村 大将の逸話を知り、親近感を持ったものでした。因みに、私の長男が小学校低学年の頃、オネショに悩んでいた 際に、「1枚目の布団もまだ腐らせていないレベルで、オネショごときで泣くんじゃない、お父さんは3枚も腐らせた ほどの男や!」と一喝したところ、長男は上には上がいると安心したのか、その後ほどなくしてオネショが止まりまし た。(笑) 坂本龍馬も成人してからも寝小便(地元土佐では才谷屋の“よばあたれ(寝小便たれ)”で有 名)を度々していたそうですね。(大物の必須条件は実は寝小便たれだったりして・・・んな訳ないか。) 今村大将が統治したインドネシアでは、今村大将が司令部に出勤するたびに、地元の子供たちが行進して後 を追った(頁1右写真)そうです。オランダの圧政から解放された喜びだけでなく、今村大将の融和的な統治や 人徳が、インドネシア人の心を掴んで離さなかったそうです。今村大将は元文学少年でもあり、陸軍士官学校時 代から聖書や『歎異抄(たんにしょう:鎌倉時代後期の仏教書)』を愛読しており、部下にもしばしば読むこと を薦めていたそうです。


東亜の解放を一生懸命やらなければいけない

 1600年ごろから植民地となったインドネシアでは、オランダ人が現地人に暴行したり、強姦しても罪に問わ れませんでした。オランダは行政を握り、インドネシア人に教育の機会すら与えない差別(注1)を行いました。 現地で独立を求める機運が高まると、3人以上の立ち話まで禁じました。これは現在の中国のチベットの支配と 同じです。(詳細は頁3①~⑫の通り) 日本併合する前の朝鮮半島でも、両班・中人・常人・賎人・白丁 (注2)の5つに大別され、3割ほどの人民が奴隷でしたが、日本統治によって奴隷は解放され、全ての人民 に戸籍が与えられました。朝鮮人はその際に、両班の使っていた苗字を使いたがったようで、そのため金、李、朴、 鄭・・・などの数少ない苗字に集中したようです。


(注1) 日本で非難されている植民地支配(実は同化政策であり植民地政策では無い)ですが、大阪大学、名古屋大学より も前にソウルや台北に大学を設立し、7割以上の現地人が学んでいた。

1886年 東京帝國大學(東京大学)設立

1896年 京都帝國大學(京都大学)設立

1907年 東北帝國大學(東北大学)設立

1911年 九州帝國大學(九州大学)設立

1918年 北海道帝國大學(北海道大学)設立

1924年 京城帝國大學(ソウル大學校)設立

1928年 臺北帝國大學(國立台灣大學)設立

1931年 大阪帝國大學(大阪大学)設立

1939年 名古屋帝國大學(名古屋大学)設立

(注2)

両班・・・貴族

中人・・・低い官職の人や医官、技術者など

常人・・・普通の庶民で 農業、工業、商業を営むもの

賤人・・・奴婢(使用人)、倡優(芸人)、僧侶、巫女

白丁・・・動物の屠殺に従事する者など


 そうした欧米のアジア支配が続く中、大東亜戦争中の日本は「アジア解放」を掲げて戦いました。今村大 将は1942年3月、第十六軍司令官として、インドネシアに上陸し、僅か9日間でオランダ軍を駆逐し、 約350年続いた植民地支配を終わらせました。今村大将は、オランダが投獄していた独立運動家のスカ ルノ(デビ夫人〔イスラム教に基づく第3夫人〕の夫)らを解放し、政治活動の自由を与えました。また、オラ ンダ人が独占していた公職をインドネシア人に置き換えていきました。その際オランダ人の手先となって支配者 側についていた華僑の多くを追放しました。戦後日本を非難するアジア人と称する人の多くは、この特権を奪 われ、追放された華僑のようです。 今村司令官布告「布告第1号」が残っています。


==========

1 日本人とインドネシア人は同祖同族である

2 日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする

3 同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する

==========


 当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないくらいのものです。植民地支 配を受ければ、人口の9割が死ぬという時代だったのです。人々に私有財産は認められず、男は苦役に狩り 出され、女は貞操を奪われる。それが被植民地の常です。なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配 者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。キリスト教の名において、神に仕える西洋の白人に対して、 野蛮人であるアジア・アフリカ人に対して労働の提供を求めることは合法であったのです。 ところが今村大将は、開口一番「共存共栄」です。インドネシア人たちは非常に驚きました。そして今村司 令官の布告は、終戦まで一度も破られる事はなかったのです。


他にも例えば、

①農業改良指導

②小学校の建設と、児童教育の奨励

③新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊

④英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用

⑤5人以上の集会の自由

⑥多方面でのインドネシア人登用

⑦インドネシア民族運動の容認

⑧インドネシア人の政治参与を容認

⑨軍政府の下に「中央参議院」を設置

⑩各州・特別市に「参議会」を設置

⑪ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織

⑫「インドネシア祖国防衛義勇軍」(PETA)の前身を創設

特に⑫はどう見ても、ジャワ(インドネシア)独立への「ステップ」です。 そして現実に、ジャワの日本軍政時代にインドネシア独立の段取りは整えられていきました。 軍政が落ち着いた1942年11月、今村大将は第八方面軍司令官として、アメリカの反攻が迫るパプ アニューギニアのラバウルに異動になります。補給が途絶えた南方戦線の多くの地域では、兵士の半分以上 が餓死しましたが、ラバウルでは、今村大将が自給自足のために広大な畑をつくらせていたので、10万人の 兵士が飢えずに済みました。 また今村大将は、敵に備えて塹壕も掘りました。終戦までに掘った長さは、全部で東京から名古屋ぐらい になり、爆撃されてもびくともしないものでした。今村大将の指導で要塞化した、ラバウルの陣地を見たアメリカ は、同地への上陸を諦めたそうです。


戦犯裁判で「全ての責任は負う」

インドネシア攻略の後、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノ(初代 大統領)とハッタら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支 援する一方で、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額とし、オランダ軍から 没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持 に努めるなど現地住民の慰撫に努めました。 かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜と なった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行いました。 日本の敗戦後、世界各地で多くの日本兵が戦争犯罪人(戦犯)として裁かれました。 植民地を奪われた復讐心もあり、無実の罪で死刑になるなど、乱暴な判決が横行しました。今村大将が いたラバウルでも、白豪主義のオーストラリアが裁判を行いました。 今村大将はラバウルではほとんど戦っていませんので、豪州司令官は、『戦争犯罪なし』と報告しましたが、 オーストラリア本国が「何百人かは有罪に」といった指令を出したため、やむなく戦犯とされてしまいました。しか し、裁判で今村大将は「全ての責任は自分が負うから、部下は日本に帰せ」と主張。10年の有期刑判決を受け、戦犯として日本に移送、1949年に巣鴨プリズン(A級戦犯の収容所)に収監されました。 (第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされました。) ところが、今村大将は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ 東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されて いるパプアニューギニアのマヌス島刑務所への入所を希望しました。夫人を通してGHQ司令官マッカーサー 将軍に直訴したといわれています。その態度にマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する 為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐ に許可するよう命じた」と言ったといわれています。 恥ずかしいことに、部下に死を命じた戦犯容疑者の大半 は無罪を主張し、マッカーサーは怒りを感じていたようです。 その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦 争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税はすべて戦死者 や戦犯刑死者の遺族の為に用いられたそうです。元部下に対して今村大将は出来る限りの援助を施し、そ れは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であっ たといわれています。その行動につけこんで元部下を騙って無心をする不心得者もいたようですが、そのような 輩に対しても今村大将は騙されていると知りながらも敢えて拒みはしなかったといわれています。 リーダーとはどうあるべきか、その責任の取り方とはどのようなものか。今村大将の人生はそのことを我々に明 確に伝えてきているように感じられます。昨今の政治家や官僚、経済人、芸能人等の報道を見るにつけ、私 利私欲、損得、自我に走るリーダーの生き様が、多くの国民に悪影響を与えているような気がします。 私は、この今村大将の生き様を、今後多くの人に伝えていくことで、若いリーダーの育成・指導を実施して いきたいと思います。 ご参考)インドネシアの独立記念日は8月17日です。彼らはそ の日を<ムルデカ17805>と呼んでいます。因みにその意味は、 ムルデカとはインドネシア語で「独立」を意味し、17805は左から 17日8月05年となります。その05年はどこから取ったかというと 西洋暦の1945年の45ではなく、日本の古い年号である皇紀 2605年(神武天皇即位から2605年の意味)から持ってき たものです。インドネシアでは独立年号を日本の皇紀で表すほどの親 日国でもあり、日本に感謝しているのです。

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