大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑥

query_builder 2019/10/10
歴史編

 第6回目は、山口多聞少将(やまぐち たもん、1892年(明治25年)

8月17日 – 194 2年(昭和17年)6月5日、49歳没)、日本の海軍軍人です。海兵40期次席・海大24期次 席。ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将(東京都出身)です。


名前の由来は、楠木正成の幼名多聞丸に由来。山口多聞少将は、旧日本海軍でも「提督の中の提督」 として、世界中の軍事ファンから称賛されている人物(写真①②)(写真③は映画「連合艦隊司令長官山 本五十六」で阿部寛演じる山口提督)です。東京・文京区小石川に、旧松江藩士山口宗義の子として生 まれました。 山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領でしたが、幕末時の藩主は松平 家で、山口家は出雲松平家の家臣でした。 この松江藩は江戸期にその裕福さで有名な藩でした。藩経済は、他藩のように米による年貢中心ではなく、 古くから盛んであったタタラによる製鉄業を藩の産業として育成して産業振興を行なってきたからです。


タタラと聞いて思い出したのが、今から16年前に経験した「過去世退行催眠」の記憶です。私は鎌倉時 代の1290年代、島根と山口の県境のタタラ場で刀鍛冶をやっていました。その時代は現在の長女と夫婦 でしたが、失火により家を全焼させ、失意のうちに家族を捨てて失踪し、乞食となって行き倒れて死んでしまうと いう悲惨で後悔の多い人生でした。これが原因かどうか、長女とは折り合いが悪く、常に罪悪感がつきまとって いたように思います。この経験の9年後に長女も退行催眠を経験し、4つの過去世を思い出し、彼女なりに 問題解決したとのことでした。私が損害保険会社にご縁があったのも、火災(不慮の災害)によって人生の道 を誤ったことを悔い、道を失いかけている人を保険でサポートしていくことを仕事に選んだのかもしれません。


話は戻ります。山口少将は、現在でも東大進学者数NO1の進学校として名高い開成中学(現開成 高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。 兵学校入学時の成績は、150人中21番、卒業時の成績は、144名中2番です。 同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎中将がいます。兵学校定番の棒倒し(昔はよく運動会で実施され ていましたが、組体操と同様危険とのことで殆どの学校で廃止)では山口・大西は双璧と称されていたようで、 文武両道の超エリート的な存在でした。


山口少将は、大東亜戦争開戦の僅か半年後に戦死しています。

その間に、

(1) ウェーク島の戦い

(2) ポートダーウィン攻撃

(3) セイロン沖海戦

(4) 珊瑚海(さんごかい)海戦

(5) ミッドウェー海戦


の5つの海戦を指揮し、⑸のミッドウェー海戦以外では圧勝していることは特筆すべき功績(写真④)です。 さらに判断に迷う総指揮官の南雲忠一中将に対し、真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の際に2度の意見具申を 行なっていることです。当時下位の者が上位の者に意見を言うことは非常に難しい状況でしたが、戦に勝つこと を優先し、優柔不断な南雲司令官に厳しい決断を迫っていたのです。 結果的に南雲司令官は正攻法の攻撃を選択し、兵装転換(陸上用爆弾から海戦向け魚雷に転換)と いう愚を犯し、無駄に時間を費やし、航空母艦3隻がたちまち急降下米爆撃機により攻撃され、被弾炎上と なりました。一隻だけ無傷で残った山口少将率いる空母飛龍(写真⑤)が米空母に殴り込みをかけ、空母 ヨークタウンを大破炎上させ(後に潜水艦の雷撃により沈没)、一矢報いることができましたがその後敵雷撃 機の攻撃を受け沈没。山口少将は、本人の強い希望で空母飛龍と運命を共にしました。 そもそも連合艦隊司令長官の山本五十六大将、第一機動部隊司令官の南雲忠一中将が戦力温存に 走らざるを得なかった要因は、第一次世界大戦後、強力になった大日本帝国を警戒した米英が、1922 年開催のワシントン軍縮会議において、主力艦比率を米英日対比で5:5:3としたことによります。米英 と戦う場合には10:3、米国と戦う場合にも5:3の比率となり、当時の軍事学からは最低10:7の 比率を確保しなければ必ず負けるとの考えが海軍内では圧倒的であり、決して戦ってはいけない相手が米国 だったのです。(軍事学における戦闘結果は軍事力対比数字の2乗の結果すなわち100:49となる。 当時の連合艦隊では2:1ならば戦意と技能において米国を凌駕できると考えていた。)



真珠湾攻撃において米国戦艦群に大打撃を与えてなお、第二航空戦隊指揮官の山口少将は、「第二撃 準備完了」と南雲司令官に送りました。米海軍工廠や燃料タンクが無傷で残っていたからです。これを叩いて おけば米国の反撃は3~6か月は遅れていたといわれています。戦に勝つことに主眼を置いての判断です。 「兵は拙速(せっそく)を貴ぶ(孫子)」

戦場において最も重要なことは「即断即決」です。山口少将は、この「即断即決」ができる、日本海軍にお いては稀有な存在だったのです。海軍は船がベースとなりますが、港で船を遠目に見つけてから到着まで1時 間くらいかかります。じっくりと考えることが体質上当然とされた組織において、20年以上本格的な戦争が無 かった海軍が、官僚的になってしまったことはやむを得ないことかもしれません。海軍人事も「いかに戦うか」では なく「どうバランスをとるか」に重んじられていました。平時には日本的な秩序維持のために年功序列もありかもし れませんが、有事(戦時)においてもこれを維持してしまったところに、近代戦を戦うという思想が根本的に無 かったのだと思わざるを得ません。派閥政治でバランスを取ろうとしている現政権も、今後の時代の急激な変化 に対応できるかどうか、はなはだ疑問に思ってしまいます。


 欧米の諺に、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉があります。我が国のリーダーには、是非 とも過去の歴史から真実の、勝利の法則を学んでほしいと思います。


因みにアメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は、レイモンド・スプルーアンス少将(後に大将:写真 ⑥)を十数人抜きで抜擢し、戦闘の最前線の司令官に据えてきました。スプ ルーアンス少将は周囲から「人格も能力も兼ね備えたリーダー中のリーダー」と 称された傑出した軍人です。彼のようなリーダーを有事には抜擢できる国、それ がアメリカという国です。侮れません。我々はここを学ばなければなりません。彼 はアナポリス兵学校卒業後間もない頃の航海で日本に来た時、パーティー席 上で東郷元帥(日露戦争時の連合艦隊司令長官)に会った感激を終生 忘れなかったそうです。他の提督が日本人を侮辱する言葉を吐くのが当然の 時代でも、彼は日本軍に対する敬意を失わなかったといわれています。 スプルーアンスの逸話で有名なエピソードは下記の通りです。

「アメリカの青年達よ、東洋には、すばらしい国がある。それは日本だ。日本には君達が想像もつかない立派 な青年がいる。ああいう青年がいたら、やがて日本は世界の盟主になるに違いない。奮起しろ!!」


彼は、このように言い、戦後、全米各地を公演して回りました。彼が、このように日本の事を語るようになった のは、次のようなエピソードがあったからです。 1ヶ月近く激戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出して、アメリカ軍が硫黄島(栗林忠道中将が守備)を占 領した明くる日のことです。岩山の穴の中から負傷した日本の陸軍少佐が降伏のしるしのハンカチを持って出て 参りました。彼は、「司令官はいないか。穴の中には、有能な30名の青年達が残っている。彼らを日本のた め世界のために生かしてやりたい。私を殺して彼らを助けてくれ。」と言いました。少佐を引見したスプルーアンス が「お前も部下達も助けてやろう」と言うと、彼は「サンキュー」と言って絶命しました。 その後、アメリカ軍は、青年達が残っている穴の中に煙草や缶詰を投げ入れたりして、残された青年達に穴 から出てくるよう勧告しますが、彼らはそれに応じず抵抗を続けました。数ヶ月間の抵抗の末、やがて何名かが 餓死し、最後に残された者達は手榴弾で自決して果てました。その爆発の時に、スプルーアンス司令官が穴の 所に飛んで行くと、穴の入り口に英語と日本語で書かれた手紙が置かれていました。 「閣下の私達に対する御親切な御厚意、誠に感謝感激に堪えません。 閣下より戴きました煙草も肉の缶詰も皆で有り難く頂戴いたしました。

お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることができません。 最早(もはや)水もなく食もなければ、十三日午前四時を期して、 全員自決して天国に参ります。 終りに貴軍の武運長久を祈って筆を止めます。 昭和二十年五月十三日 日本陸軍中尉 浅田真二 米軍司令官スプルーアンス大将殿」


先の戦争では両軍全力で戦ったのです。その戦いの中で日米ともに最高レベルの指揮官である山口少将と レイモンド・スプルーアンス少将が相対して太平洋戦争の分岐点と言われるミッドウェー海戦で戦ったことは、あ る意味で特筆すべきことなのかもしれません。

ヘッド(頭脳)とハート(志)とガッツ(実行力)


 旧帝国海軍は、ヘッドは優秀、国を思う気持ちも強くハートも持ち合わせていましたが、ガッツが無かったと、 元海軍航空参謀の源田実氏は評論家の渡部昇一氏との対談で語っていました。もし真珠湾攻撃で「第二 次攻撃」が行われていたならば、もしミッドウェー海戦で日本海軍が勝利を収めていたならば、そしてもし山口少 将が機動部隊の司令官であったならば、率先垂範で即断即決、臨機応変に強烈なリーダーシップを発揮して 歴史を変えていたような気がします。少なくとも米国民の戦意を挫き、早期講和の糸口が見えていたかもしれま せん。 ここが世界中の歴史マニアや軍事マニアの心をつかんで離さないポイントのようで す。因みに機動部隊の南雲司令官(写真⑦)はその後軽巡洋艦【長良】に逃 れ、失意のまま生き延びたことと対照的です。戦に臨む<覚悟>が違っていたので しょう。南雲中将はその後艦隊から降ろされ(艦艇の大半を沈められたため)、 最後はサイパン島陥落時に自決されました。<生き様と死に様>というものを考え させられます。 真に優秀な人材を、適材適所で活用できなかったことは、当時の軍事組織の中だけでなく、今の政治家や 官僚にも顕著に見られる特徴です。これは日本人の国民性かもしれませんね。我々後世に生きる者の務めと して、歴史を検証し、学び活かせることは全て修得して、次世代にバトンを繋いでいかなければならないと強く 感じます。そうすることで日本という素晴らしい国を、未来永劫継続していきたいと思います。




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