大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑦

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歴史編

第7回⽬は、根本 博中将(ねもと ひろし、1891年6⽉6⽇ – 1966年5⽉24⽇、中国名︓林保源/写真①②③)は、⽇ 本の陸軍軍⼈及び中華⺠国の陸軍軍⼈。最終階級は共に陸軍中将。 栄典は勲⼀等・功三級。陸⼠23期(509⼈中13位の成績)。 陸⼤34期(60⼈中9位の成績)です。

 終戦時に内モンゴル(当時は蒙古聯合⾃治政府) に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵 攻を⽌めないソビエト軍の攻撃から、蒙古聯合⾃治政 府内の張家⼝付近に滞在していた在留邦⼈4万⼈を 救いました(写真④)。 根本中将は罪に問われた際は⾃分⼀⼈が腹を切れ ばいいと考え、「理由の如何を問わず、陣地に侵⼊する ソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が⼀切を負う」と⽇本守備隊に対して 命令を下しました。 この⾔葉に⽇本軍は奮い⽴ち、ソ連軍と中共軍(⼋路軍)を各所で撃破しました。⽇本⼈がソ連(今の ロシア)を嫌うのは、彼らが節操のない⽕事場泥棒だったからです。戦後⽇本⼈が共産主義を嫌う背景にも そのあたりが⼤きく影響しているものと思われます。


 根本中将は復員後の1949年に、敗 戦時の混乱の中で格別の配慮をし、理解と 協⼒を惜しまなかった蒋介⽯総統への恩義 を返すため、中華⺠国の統治下にあった台 湾へ渡りました。そして⾦⾨島における戦い (写真⑤)を指揮し、中共政府の中国⼈ ⺠解放軍を撃破。中共政府は台湾奪取に よる統⼀を断念せざるを得なくなり、今⽇に ⾄る台湾の存⽴が決定的となりました。 根本中将は敗戦後、戦後処理中の1 945年12⽉17⽇に蒋介⽯総統と ⾯談した際、「東亜の平和のため、そして閣 下(蒋介⽯総統)のために、私でお役に ⽴ つ こ と が あ れ ば い つ で も 馳 せ 参 じ ま す 」 と 約 束 し 、 そ れ を 4 年 後 実 ⾏しました。何故なら蒋介⽯総統は、4万⼈の邦⼈と35万⼈の将兵の救済と⽇本への帰国、天皇制につ いては⽇本国⺠の決定に委ねるべきとの主張を、1943年のカイロ会談においてルーズベルトとチャーチルに ⾏い、守ってくれたからです。


(中国国⺠党軍との調印式)

中京軍との戦いの天王⼭である⾦⾨島の戦いで、根本中将の英断が事態を⼤きく左右しました。共産軍 兵⼠は村を盾にする形で国⺠党軍と対峙しました。戦⾞隊が突⼊する⼀掃作戦に踏み切れば、⾦⾨島の古 寧頭は跡形もなく無くなってしまう。「このままでは巻き添えで⼀般の村⺠が⼤勢死ぬ」と考え、根本中将は 幕僚会議で唯⼀⼈、村⺠の命を守ることを主張しました。退路を設けて海岸に誘い出したうえで洋上から⼀ ⻫に砲撃する作戦を提案し、了承されました。その作戦は⾒事に的中し、2万⼈規模の共産軍部隊は壊 滅しました。その根本中将のことを、古寧頭の⼈々は<戦神(いくさの神様)>と呼びました。 根本中将は昭和27年6⽉に台湾から⾶⾏機で⽻⽥空港に戻りました。⽇本陸軍が消滅後に再び戦 場で指揮を執り、⾦⾨島の戦いを勝利に導き、島⺠の多くを救済したことなど⼀切を語らず、昭和41年5 ⽉、静かに74歳でこの世を去りました。 後に台湾⼈の⽣存者が、「根本さんは、ただ私たち(台湾⼈)と⼀緒に死のうとしてくれたのだと思います。 そういう⽇本⼈が現実に存在したこと、そのことを今の台湾の若い⼈に是⾮知ってほしいと思います。⽇本の若 い⼈もそうですが、こういう⽇本⼈がいたことを台湾⼈は忘れてはならないと思います。」と語ったそうです。


根本中将は、GHQ占領時の1949年に、家 族には「釣りに⾏く」と告げて釣り竿⼀本携えて僅か数 ⼗トンの⼩型船で苦難の密航をして、蒋介⽯総統との 約束を果たすため(写真⑥)に台湾援助に駆けつけ ました。もし根本中将の「戦神」と称えられた軍事貢献 がなかったら、台湾は中共に占領され、戦後の⽇本及 び北東アジアの運命も⼤きく変わっていたと思われま す。いわば根本中将は戦後の⽇本と台湾の救世主の ⼀⼈でした。70年前に⽇本軍⼈の中にはこのような漢 (おとこ)がいたのです。 因みに中国残留⽇本⼈孤児が今から40年位前から20年位前まで、毎年のように⾝内を頼って⽇本 に来ていました、何故そのような悲劇があったのかというと、根本中将率いる在蒙軍と違い、在満州⽇本軍は 終戦の詔勅の後、安易に武装解除してしまいました。当時600万⼈といわれる在中国⽇本⼈軍属と⺠間 ⼈が、ソ連軍と中共軍の終戦後の軍事攻撃によって、数多くの⽼⼈や⼦供たちをやむを得ず現地に残してこ ざるを得なかったからです。そして結果的に多くの幼児たちが、「優秀な⽇本⼈の⼦供が欲しい」という中国⼈ や、慈悲深い中国⼈に引き取られたことが原因です。 「台湾近代化の⽗」といわれる医学博⼠でもあった後藤新平は、インフラ整備をはじめ、台湾の衛⽣観念 教育、病院・予防消毒事業団設⽴など衛⽣改善策を実施しました。結果的に台湾からあらゆる伝染病が消 滅し、台湾の発展に⼤きく貢献しました。 それを引き継いだ明⽯元⼆郎総督(⽇露戦争当時は⼤佐としてロシア⾰命を画策し、極東へのロシア兵 の派兵を阻⽌)は「台湾教育令」発布、⽔⼒電⼒事業、司法制度改⾰、縦貫道路の着⼯、鉄道などの交 通機関の整備促進その他を実施しました。「余は死して護国の⻤となり、台湾⺠の鎮護たらざるべからず」と遺 ⾔して、遺体は博多から運ばれ台北の⼟となりました。 そして、根本博・吉村是⼆(通訳)の⼀⾏を台湾密航させるべく貢献したのは、明⽯元⼆郎総督 (写真⑦)の⼦息の明⽯元⻑⽒であり、台湾を愛し⾻を埋めた明⽯元⼆ 郎総督の思いが彼らを動かし、その加護で無事に台湾に辿り着いたのかもし れません。 当時より敗戦国である⽇本からの根本中将の渡台は台湾でも極秘であ り、その後の台湾(中華⺠国)における政治情勢(国⺠党政府(=外省 ⼈︓⼤陸出⾝)による台湾統治の正当化)もあって、根本中将たち⽇本 ⼈の協⼒は、現地でも忘れ去られていました。また、古寧頭戦役そのものの 歴史的意義の認知も低かったようです。

<古寧頭戦役60周年式典>

2009年(平成21年)に⾏われた古寧頭戦役戦没者慰霊祭に根本中将の出国に尽⼒した明⽯


元⻑⽒の息⼦・明⽯元紹⽒や、根本中将の通訳として⻑年⾏動を共にし、古寧頭の戦いにも同⾏した吉村 是⼆⽒の息⼦・吉村勝⾏⽒、その他⽇本⼈軍事顧問団の家族の⽅たちが中華⺠国(台湾)政府に招待 され、中華⺠国・⾺英九総統(前総統︓当時)と会⾒しました。彼ら⽇本⼈たちの出席が認められたのは、 式典開催⽇の僅か1週間前だったのです。


 また、明⽯元紹⽒と吉村勝⾏⽒の帰国の際に、中華⺠国国防部常務次⻑の⻩奕炳中将は、報道陣の 前で「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における⽇本⼈関係者の協⼒に感謝しており、これは『雪中炭 を送る(困った時に⼿を差し延べる)』の⾏為と⾔える。」とした感謝の⾔葉を述べられました。


 根本中将たち当時の⽇本⼈たちの⾏動が、戦後の⽇台関係にどれ程の功績を残したのでしょうか。私は 「⾄誠天に通ず(孟⼦︓誠の⼼を尽くして⾏動すればいつかは必ず天に通じ認められるという意味)」という ⾔葉が好きです。根本中将の戦における基本スタンスは、常にこの<⾄誠天に通ず>であったように思いま す。リーダーとしてのこの姿勢は是⾮学んでいきたいと思います。




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