大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑨

query_builder 2020/02/10
歴史編

 第9回目は、美濃部正少佐(みのべ ただし、旧姓:太田(おおた)、1915年7月21日 – 1997年6月12日)です。日本の海軍軍人、航空自衛官です。海兵64期。最終階級は海軍にお いて少佐、自衛隊において空将。(芙蓉部隊(特攻拒否の異色集団)~戦争と平和:

敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、海軍上層部が推し進める無謀な体当たり攻撃「特攻」を公然と拒 み、ただ一つ、終戦まで通常戦法を貫いた航空部隊として有名な部隊が、夜間攻撃(夜間戦闘機部隊) を専門とする「芙蓉(ふよう)部隊(写真①:基地から仰ぎ見る富士山の別名(芙蓉峰)にちなんで)」 です。整備員らを含め総勢1000人もの隊員を統率したのは、当時29歳の美濃部正少佐(写真② ③)でした。 部隊発足時点で2人乗りの艦上爆撃機「彗星(すいせい(写真④靖国神社保管))」60機、1人 乗りの戦闘機「零戦(ゼロ(零)戦(写真⑤靖国神社保管))」25機を保有。米軍の沖縄進攻に伴 い、主力部隊は鹿児島県の鹿屋(かのや)基地、さらには岩川(いわがわ)基地に移動し、終戦までに出 撃回数81回、出撃機数は延べ786機に上りました。


 この間、戦艦、巡洋艦、大型輸送船各1隻を撃破したほか、沖縄の米軍飛行場大火災6回(うち1回 は伊江島飛行場に揚陸された艦載機600機の大半を焼き払う)、空母群発見6回、撃墜2機など、特 攻をしのぐ戦果を上げる一方、47機が未帰還となり、戦死搭乗員は76人に達しました。 美濃部少佐は、特攻を「つまらん作戦」と言い切っていました。その代わり昼夜逆の生活を隊員に指示し、 夜間猛訓練を実施しました。真夜中に離陸し、夜が明ける前に着陸することで、生きて反復攻撃を繰り返すことを目的としました。 美濃部少佐は、「米軍のやり方は分かっている。敵機がいたらケツ(尾部)に付け。あいつらが着陸する前 には滑走路に照明がつく。そこを狙う。下からは絶対に撃たれん」と言っていたそうです。


 この芙蓉部隊も敗戦色が濃くなる戦争末期の1945(昭和20)年2月末には、特攻隊編成に組 み込まれるところでした。千葉県・木更津基地の第3航空艦隊司令部で開催された、連合艦隊主催の次期 作戦会議(航空艦隊の幕僚と、その指揮下の部隊長、飛行長ら約80人が出席。美濃部少佐は最若輩 で末席にいました。)において、海軍首脳部が示した沖縄戦での全機特攻方針に、美濃部少佐が強硬に反 対しました。その結果、芙蓉部隊だけは特攻編成から除外され、通常攻撃を続けることになったのです。 当時の部下の搭乗員は、「木更津からカンカンになって藤枝に帰ってきた美濃部さんが、われわれ搭乗員を 集めて、『俺は貴様らを特攻では絶対に殺さん!』と言ったのをはっきり覚えています。すごいことを言う人だな あと思いましたね。普通の指揮官とは全く違っていました」と述べています。 一前線指揮官が公式の会議で軍全体の方針に反旗を翻すことなど、当時の軍隊では考えられないことで す。最悪の場合、軍法会議で抗命罪に問われ、極刑に処せられてもおかしくない状況の中、行われた下記の やり取りが痛快です。


 当時の日本海軍の航空兵力は約4000機、その中には中間練習機(写真⑥)、航法訓練機白菊 (写真⑦)隊までが攻撃部署に含まれていました。美濃部少佐は、あの凄まじい対空砲火、直衛戦闘機網 の中に時速150キロ(米軍機は600キロ以上)足らずの訓練機がどのようにして敵に近づけるのか? 戦場を知らぬ凶人参謀の殺人戦法に怒りを感じたようです。さらには最後の一戦というのに、部隊長、艦隊司 令部はいつどこで指揮官先頭に立つのか?比島(フィリピン)戦同様、若者たちのみ特攻にけしかけて、また 上層部だけが逃げる心算なのだろうと考えました。連合艦隊は指揮下部隊の能力、練度も無視し、比島(フ ィリピン)戦で証明済みの効果なき非情の特攻戦で勝算があるというのだろうか?指揮官として、このまま受命 して部下に何と説明すればよいのか考えてしまったそうです。 美濃部少佐:「全力特攻、特に速力の遅い練習機まで繰り出しても、十重二十重のグラマン(戦闘機) の防御網を突破することは不可能です。特攻の掛け声ばかりでは勝てないのは比島戦で証明済み・・・・。」 連合艦隊黒島亀人参謀(真珠湾攻撃の具体策を立案)は、末席の若造、何を言うかとばかりに色をなしました。 黒島参謀:「必死尽忠の士4000機、空を覆うて進撃するとき、何者がこれを遮るか。第一線の少壮 士官の言とも思えぬ・・・。」 と敗北思想の卑怯者と言わんばかり。満座の中で臆病者とばかりの一喝。相手は今を時めく連合艦隊首 席参謀黒島少将。私はミッドウェー作戦以来のGF作戦の無策、稚拙を嫌というほど体験してきた、この黒島 参謀こそ、その元凶でした。馬鹿の一つ覚えの猪突攻撃命令には、もう我慢がならない。レイテの逆上陸多号 作戦に対しても、陛下のご懸念をごまかして強行し、あの惨敗。このような海軍から規律違反で抹殺されようと も引き下がれない。


 美濃部少佐:「今の若い搭乗員の中に死を恐れる者はおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるには、そ れだけの成算と意義が要ります。死に甲斐のある戦果を上げたいのは当然。精神力一点ばかりの空念仏では 心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい。」 黒島参謀:「それならば、君に具体策があると言うのか。」 私はあぜんとした。連合艦隊参謀ともあろう者が一飛行隊長に代案を求めるとは。 美濃部少佐:「搭乗員の練度不足を特攻の理由に挙げているが、指導訓練の工夫が足りないのではない か。私の所では総飛行時間200時間(当時一人前の搭乗員の育成には800時間を要しました。)の 零戦パイロットでも皆、夜間洋上進撃可能です。劣速の練習機が何千機進撃しようとも、昼間ではバッタのご とく落とされます・・・。」 この間、列席の先輩からは何一つ意見なく、中にはタバコをくゆらせている者もあった。


 美濃部少佐:「2000機の練習機を駆り出す前に、ここにいる古参パイロットが西から帝都(東京) に進入されたい。私は箱根の上空で (零戦)一機で待っています。ここにおられる方のうち、50人が赤ト ンボ(写真⑧)に乗って来て下さい。私が一人で全部たたき落として見せましょう。艦隊司令部は、芙蓉 部隊の若者たちの必死の訓練を見ていただきたい。」 その結果、芙蓉部隊は特攻編成から除外、夜襲部隊とし て菊水作戦に参加することになったそうです。


 美濃部少佐は終戦後も残務整理や進駐軍による接収準備のため岩川基地にとどまり、10月に復員し ました。公職追放が解除されると、請われて航空自衛隊の創設に参加しました。要職を歴任し、1970 (昭和45)年7月に最高位の空将(写真⑨)で退官しました。 「政治家、役人、ジャーナリスト、国民 世論の軍事音痴に振り回され、魅力のない職場であった」という自衛隊勤務だったようです。当時は安保闘争 で学生運動が最も盛んな時期でした。また戦後の日本人に対する苦言として、「平和、非戦を叫ぶのみで、飽 くなき経済繁栄飽食を求め、30億余(退官当時)の貧困飢餓民族への配慮、対策、思いやりに具体策 不十分」。独善的に願望を唱えるだけなら、「撃滅せよ、必勝を期す」という戦時中の軍部の命令と同じだと言 い切っています。さらに、アジア諸国との関係も含め、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗北を「日本人の独善 性の過ち」とし、「天を恐れ、常に慎ましさを忘れないでほしい」と我が国の国民に言葉を残されています。 私は、正論を述べる事が憚られた当時の海軍において、この美濃部少佐の勇気ある行動を高く評価した いと思います。指揮官先頭を実践し、合理的な戦法を採用し、実行に結び付ける信念と行動力は、リーダー とはかくあるべしと思わせるに十分な人物であったと思われます。


 人の上に立つ者は、確固たる信念を持ち合わせるとともに、実行力が問われます。他人の価値観に振り 回されるようではリーダーシップを発揮することは困難です。 リーダーシップで大切なものとは何か? 2年前に本コラムで申し上げましたが、<ヘッド(肉体・脳)>と<ハート(心・魂・マインド)>と<ガッ ツ(行動力・実行力・勇気)>の三位一体が重要であると思います。



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