大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑮

query_builder 2020/08/15
歴史編

 野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月18日 – 1945年(昭和20 年)3月21日)は、日本の海軍軍人。特攻兵器「桜花」を擁する神雷部隊指揮官として九州沖航空戦 に参加。最終階級は戦死による二階級特進で海軍大佐(写真①②③)。海兵61期卒。




 父は陸軍少将、次兄は陸軍中佐、226事件で拳銃自決した野中四郎(写真④)は三兄。 野中五郎少佐は、常々、海兵同期の深井少佐と酒を飲み交わした際、「戦争になったら一番危険な第一 線に行って、一番危険な任務について立派に死んで、兄貴(野中四郎)の汚名をそそぐ」との決意を語って いたそうです。


<野中五郎少佐の軍歴>

昭和 8年11月18日 海軍兵学校卒業(61期)

昭和11年 海軍飛行学生

昭和13年 航空母艦「蒼龍」乗り組み

昭和15年 土浦航空隊

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和16年12月8~10日 フィリピン・クラークフィールド基地攻撃参加

昭和16年12月 マニラ攻撃参加

昭和16年12月 香港攻撃参加

昭和17年 1月 コレヒドール攻撃参加

昭和17年 2月 豪州・ポート・ダ―ウィン攻撃参加

昭和18年 5月 アリューシャン列島・アッツ島艦船攻撃参加

昭和18年 7月 ニューギニア・ガダルカナル島飛行場攻撃参加

昭和18年11月 ギルバート諸島方面艦船攻撃

昭和19年 6月 硫黄島進出、サイパン島夜間攻撃参加

昭和19年10月 1日 第721海軍航空隊(神雷部隊)陸攻隊隊長 昭和20年 3月21日 第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃(写真⑤)戦死(享年35歳)


 この軍歴は、日本海軍航空隊の歴史を少しでも知っている人が見れば、驚愕の軍歴です。日本の航空機 は防弾装備が無いに等しく、敵弾を受ければ直ぐに発火してしまう、危険極まりないものでした。開戦の初期の 頃は優秀な搭乗員(パイロット)を多く抱え、戦闘経験豊富な日本軍が優位でしたが、長期化するに従い、 優秀な搭乗員に休みも与えず、消耗品扱いした陸海軍航空隊は衰退していきました。特に攻撃機、爆撃機 の消耗は戦闘機以上でしたので、指揮官先頭で爆撃機に乗り続けた野中少佐は極めて強い「運」も持ち合 わせた指揮官であったことが分かります。




<第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃>


 昭和20年3月21日、野中少佐が率いる神雷部隊が出撃する事が決まりました。神雷部隊司令岡 村大佐、第五航空艦隊参謀長横井少将は、一式陸上攻撃機(写真⑥)18機に対して護衛の戦闘機 55機(このような作戦では通常80機~120機の戦闘機が必要)では成功の望み無しとして、五航 艦長官宇垣中将(写真⑦)に計画延期を進言しました。しかし宇垣中将は「今の状況で桜花を使えないな ら、使う時が無い」という理由で計画を強行しました。


 機首に1200kgの火薬を装備し、人間爆弾といわれた桜花の航続距離は約30kmです。したが って敵艦隊の上空まで桜花を運ばなければなりません。ところがレーダー網で行動を把握されている日本機は 全て鹿児島を超えて沖縄にたどり着く数百キロ手前で、米海軍の戦闘機に捕捉され撃墜されます。戦闘機で すらたどり着くことが困難な道のりを、積載能力の2倍もの重量の人間爆弾を積載した爆撃機、しかも被弾す ればすぐに燃えてしまう欠陥機(山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル上空で撃墜されたのもこの一 式陸上攻撃機でした)で、時速400kmにも満たないスピードで・・・。誰が考えても結果は明らかでした。


 午前11時20分、神雷部隊は鹿児島の鹿屋基地を発進しましたが、途中22機の護衛の戦闘機が 故障で引き返しました(正味で現地まで護衛に同行した戦闘機の数は僅か33機です)。わが軍よりも遥 かに優れた性能を備えた数百機の敵戦闘機の迎撃を受け甚大な被害が発生することは間違いありませんでし たが、宇垣中将は「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」と攻撃続行を厳命しました。ここ で帰還を命じていれば、悲劇は避けられたのですが、残念でした。


 野中少佐が乗る陸攻は「桜花(写真⑧)」を懸吊していませ んでしたが、一路敵艦隊を目指し雲間に消えていったそうです。



 野中少佐の神雷部隊には、「南無八幡大菩薩」と「非理法権 天(注2)」という楠木正成の掲げた幟がはためいていました。


 隊員は誇りを込めて自らを「野中一家」、隊長を野中親分と呼んでいました。時には陣羽織を着て指揮にあ たっていました。また、時には戦場で茶の湯を点てる雅(みやび)な面も持ち合わせた隊長でした。


 (注2)ひりほうけんてん:無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権 威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する。


 野中少佐は、訓練の際、搭乗員整列の合図に陣太鼓を鳴らし、「今日はめっぽう天気がいい! 陸攻隊 の野郎ども、具合のいいところからおっぱなせ! 桜花隊の野郎ども、目ん玉ひん剥いて降りてこい! 野郎ども かかれえーっ!」と号令をかけ、搭乗員たちは「がってんだーっ!」 で気合を入れて飛び立っていったそうです。 そのようなべらんめぇ口調の野中少佐のもう一つの顔が茶の湯でした。


 少佐が茶を点てる場所は飛行機の翼の下、敵弾でハチの巣になった飛行機内、硫黄島での灯火管制下 の暗闇の中など、殺伐とした戦場でのほんの少しの隙間時間の中です。全精力を注いで雷撃を繰り返し、闇 夜の洋上を帰ってくる機上で、後ろから肩を叩かれる。振り返ると野中少佐が黒茶碗に点てた抹茶を差し出し ている・・・。それを飲むとき、隊員は「生き返った」と実感したのだそうです。


 一式陸攻に吊るされた桜花(写真⑤⑥⑧)は積載限度を2倍以上も超過する大型ロケット兵器です。 これを人間に操縦させて体当たりさせる特攻隊「神雷部隊」の隊長であった野中少佐は桜花を使った作戦に は大反対でした。


 出撃を命じられた野中少佐は、「湊川だよ!(注3)」の言葉を残し、機上の人となりました。その前に茶 の湯の道具は家族の元に送られていたそうです。


 (注3)後醍醐天皇の側近の愚策から敗北を知りつつ、それでも天皇の御為に出陣し敗北後自決され た、楠木正成の軍700名が全滅した戦場の名称(現在の湊川神社の場所)。野中少佐の茶道具は今 日、「非理法権天」の幟とともに靖国神社遊蹴館で見ることができます。


 今年の8月15日は、この非理法権天の幟と茶の湯の道具に会いに、 遊就館に行きたいと思います。 ※実は・・・こっそり行ってきました(笑)




 当時の上層部の将官たちは軍という組織が崩壊していく中で、 ある意味で死ぬことが目的になっていたのだと思われます


 航空隊のパイロットたちは、優秀な身体能力と頭脳を持った突出した稀有な人材ばかりでした。海軍兵学 校や陸軍士官学校は、現在の偏差値でいうと75を超えるトップクラスである上に、運動神経が抜群でなけ ればならず、更には身辺調査が厳密に行われ、両親健在であることや犯罪履歴、思想なども調査されます。 いわば文武両道の超エリートが全国から各300名程です。航空隊の搭乗員に志願するものは、士官学校 に進めなかった生徒や試験に落ちた生徒が多く、殆ど兵学校と士官学校合格レベルであったといわれていま す。その極めて優秀な人材を、戦果の全く見込めない無謀な戦場に送り出し、全滅させるなど、以ての外で す。


 旧帝国陸海軍の上層部の先見性の無さと、国家国益を考えない無能さには 呆れるばかりです。因みに宇垣纒(うがきまとめ)長官は、昭和20年8月1 5日の昭和天皇の玉音放送後に、22名の搭乗員を引き連れて、沖縄方面 の米機動部隊に、最後の特攻を仕掛けました。自身を除き17名の若者の命 を奪いました。(その遺族の多くは亡くなるまで、敗戦決定後の子息の死を悔や んでいたといわれています。)



 宇垣長官は「我に死に場所を与えよ」との言葉を残しました。潔いという判断もあるようですが、私は最後ま で自分本位の行動であったと思っています。特攻の生みの親といわれた大西瀧治郎海軍中将や陸軍大臣の 阿南惟幾陸軍大将のように、全てのやるべきことをやったうえで、日本の武人の習いに従って、切腹すべきであ ったと思います。


 下記は野中五郎少佐の当時5歳の御子息に宛てた手紙です。子供を愛する良い父親像が浮かんできます。


「ぼー まいにち おとなちく ちてるか おばあちゃまや おじちゃまが いらっちゃるから うれちいだろう おたんじょうび みんなに かわいがられて よかったね おめでとう おめでとう おとうちゃまは まいにち あぶー(飛行機)にのって はたらいている ぼーが おとなちくして みんなに かわいがられているときいて うれちい もうちょろちょろ あるかなければいけない はやくあるきなちゃい


おかうちゃまの いうことをよくきいて うんと えいようをとって ぢょうぶな よいこどもに ならなくてはいけない ちゅき きらいのないように なんでも おいちいおいちいってたべなちゃい でわ さようなら おとうちゃまより ぼーへ」


(鎌倉霊園)


 べらんめぇ口調で部隊を統制した野中少佐が、最後の出撃になった昭和20年3月21日の搭乗前の 訓示の際は通常の言葉で行われたそうです。


 神雷部隊は全機撃墜され、隊員160名全員が戦死されました。救いは、野中少佐の出撃1カ月前に、 ご夫人の力子さんにお会いできたこと、そして第2子がお腹の中にいる力子さんと、一緒にダンスをされたことで す。力子さんは出発前のダンスは夫との思い出になったと語られたそうです。


 野中少佐を出撃させたことを悔やんでいた岡村司令は、その後も出撃する神雷部隊隊員に「お前たちだけ を行かせやしない。俺も必ず行く」と出撃を見送りました。終戦後、厚生省第二復員省に勤務して、部下らの 復員に目途がついた1948年7月13日に自殺しています。これも、一つの責任の取り方だと思いますが、 この人間爆弾の製造を進言した太田正一大尉は、終戦後8月18日に、遺書を残して零戦一機を奪って 飛び立ちました。その後漁船の近くに着水し、救助後姿をくらましました。そして詐欺師まがいのことを繰り返し ながら、1994年まで生きたそうです。責任追及を逃れるためでしょうが、卑怯者は最後まで卑怯な生き方 をするものですね。考えさせられます。

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