大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑯

query_builder 2020/09/15
歴史編

 第16回目は、「北海道をスターリンの魔の手から救った英雄」です。 池田 末男(いけだ すえお 1900年12月21日 – 1945年8月18日)は、日本の陸軍 軍人。愛知県豊橋市向山出身。陸軍憲兵少佐・池田筆吉の五男。兄・廉二は陸軍中将。豊橋中学卒業 後、陸軍中央幼年学校をへて陸軍士官学校入学。大正11年7月28日卒業。



 騎兵連隊の中隊長を務めた後は教育畑を転々とし、1941年(昭和16年11月)満州公主嶺 の陸軍戦車学校の教官に着任。翌年11月、四平に学校が移転したのち、1944年(昭和19年) 7月15日に校長代理。最終階級は少将。士候34期。占守(しゅむしゅ)島の戦いで戦死しました。 「戦車隊の神様」と呼ばれていました。 池田末男大佐(写真①②)は、本コラムの第2回目で登場した樋口季一郎中将(写真③)とともに、 私のアイドルの一人です。写真①②③の凛々しい姿は日本軍人の典型です。


ご参考:https://www.brain-supply.co.jp/wp-content/uploads/2019/05/201905bstsushin.pdf


 池田大佐は、8月15日の玉音放送後、終戦業務にあたっていま した。しかし、終戦3日後の8月18日午前2時30分、隊員たち が武装解除への準備を進め、故郷帰還への喜びを語り合っていたその 時に、日ソ中立条約(1946年3月31日まで法的に有効)を 一方的に破棄したソ連軍が、無法にも島に侵攻、大挙上陸してきまし た。

 侵攻してきた部隊は欧州東部戦線でドイツを打ち破ってきた歴戦の 部隊でした。戦車第11連隊本部(十一は士と記されるので「士魂 部隊」(写真⑥)と呼ばれました。現在でも陸上自衛隊北恵庭駐屯 地の第十一戦車大隊で受け継がれています(写真⑦)。)堤師団長か ら戦闘配備命令を受けると、ただちに第4中隊に索敵を命じ、本部お よび隷下の各中隊に戦闘準備と天神山への集結を命じました(写真 ④⑤)。



 島の要御、四嶺山に雲集したソ連軍を前に、その殲滅を決意した 池田大佐は部下を集めて、下記のように問いました。 「我々は大詔(陛下の詔勅)を奉じ、家郷(かきょう)に帰る日を 胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。最早 降魔(ごうま)の剣を振るう他はない。そこで皆に敢えて問う。」 「諸氏は赤穂浪士となって、恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、 或いは、白虎隊となり、玉砕をもって『民族の防波堤』となって後世 に問わんとするか。赤穂浪士たらんとするものは一歩前へ出よ。白 虎隊とならんとする者は手を挙げよ」 と。(写真⑧) 悲愴な面持ちで訓示した池田連隊長のこの言葉が終わるや否や、 「おう!」という歓声と共に全員の両手が挙がったといわれます。何とい う愛国心と戦意でしょうか!


「池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る!」(写真⑨)


 師団司令部に打電するや、池田大佐を先頭に士魂部隊の戦車群 (写真⑥)は四嶺山山麓のソ連軍めがけて殺到しました。日の丸 の鉢巻に日章旗を片手に掲げ、戦車の砲塔にまたがって先頭を進む 白いワイシャツの池田大佐の姿に日本軍の将兵は皆感激したと伝え られています。


 士魂部隊を始めとする日本軍守備隊は厳しい戦闘の末、ついに 上陸軍を撃退しました。日本軍の戦死者600名、ソ連軍の戦死 者は約3千名に上り、損害は極めて大きかったようです。ソ連共産 党機関紙イズベスチアは、社説で「占守島の戦いは満州・朝鮮にお ける戦闘よりはるかに損害が甚大であった。8月18日はソ連人民 の悲しみの日である。」と述べています。


 一方池田大佐(戦死後少将)はじめ、士魂部隊の精鋭九十 六名の勇士達も壮絶な戦死を遂げました。池田連隊長の戦車は、 四嶺山の隣にある男体山の北斜面に擱座・炎上、ご遺体は壁面に凭れ掛かった立ち姿の半焼した状態で発見されたそうです。


 スターリン統治下のソ連は、この千島樺太侵攻にあたり、終戦直 後の日本軍の混乱の隙を突いて、占守島を踏み台に全千島列島 と北海道本島まで一気に占領しようとの野望を抱いていた事が戦後明らかになりました。



 1945年2月4日、クリミヤ半島のヤルタで行われた秘密会議 (写真⑩)において、ルーズベルト米大統領はスターリンソ連書記長 に対し、日ソ中立条約を破棄して対日参戦するよう求め、その見返り として、千島列島(注1)及び南樺太のソ連領有を認めるとしまし た。しかし、ヤルタ会談後ルーズベルトが脳卒中(注2)で亡くなって しまいます。スターリンは後任のトルーマン米大統領に対し、釧路と留 萌を結ぶ線の北側(写真⑪)をソ連支配地とする北海道分割統治 へと勝手にハードルを上げてきました。トルーマンはこれを拒否しました が、終戦直後の8月18日になり、スターリンはカムチャッカ半島から 千島列島最北の占守島への攻撃を開始しました。


 この時スターリンは同島を1日で占領し、千島列島を南下、北海道全土を占領する電撃作戦を企図して いました。敗戦間際の日本軍も舐められたものです。しかし、当時日本の北方方面には無傷の陸軍の精鋭部 隊と戦後「奇跡の将軍」と内外で評価された、樋口季一郎中将が健在でした。


 ソ連軍の侵攻の報告に際し、札幌の第5方面司令官だった樋口季一郎中将は、終戦となっていたにも関 わらず反撃命令を発しました。8月9日参戦以来、ソ連軍が戦ってきた、武装解除後の満州の第3方面軍 とは全く違いました。樋口中将のこの決断が北海道をソ連軍の無慈悲な蹂躙から救ったのです。日本軍の頑 強な抵抗で、ソ連の北海道占領計画はギリギリのところで頓挫したのです。



(注1)

千島列島は1855年2月7日(北方領土の日)の日魯通好条約(にちろつうこうじょうや く)で明確に択捉島の北側の得撫島~占守島までの18島と決定(写真⑫)。択捉島以北 の千島列島はロシア領(帝政ロシア➡1917年以降ソ連領)、樺太は日ロ混生の地となり 国境は決められませんでした。1875年の千島樺太交換条約(写真⑬)を経て、1905 年のポーツマス条約で、千島列島と樺太の南半分は日本領となりました(写真⑭)。

(注2)

私は、米国で大統領が亡くなり、副大統領が就任するケースの大半は、暗殺(病気に見せかけ た)であると考えています。米ソの冷戦を見越して、実務家の副大統領トルーマンを登場させ、原 爆投下を実行させた裏勢力が存在すると思っております。


 占守島での手痛い打撃を被ったソ連は、その野望を断念せざるを得ませんでした。もし日本軍が占守島の 戦闘で敗れていたり、戦闘をせずにソ連の軍門に下っていたら、北海道は、ソ連によって東西或いは南北に分 断占領され、ドイツや朝鮮半島と同様、日本国民が塗炭の苦しみを味わうことになっていたものと思われます。


 池田大佐は部下からの信望もすこぶる厚く、極寒の地において、自分の下着を決して部下に洗わせるような ことはしなかった、というほどの人格者でした。兵たちには「おまえたちは私に仕えているのではない。国に仕えてい るのだ」と諭していたといわれています。そういう連隊長との絆が兵士たちの志気を高め、十一連隊の組織力を より強固にしたことは想像に難くありません。 正に「理想のリーダー像」が窺えます。


 しかし、悲しいかな、日本軍が占守島の戦いに勝利しても、敗戦国と なったことは動かすことのできない事実です。ソ連軍の監視下で武装解除 し、日本の兵士たちは捕虜としてシベリア抑留となってしまいました。その 後抑留された一部民間人も含め57万5千人のうち5万8千人が氷 点下-40度の極寒の地シベリアで亡くなっています。


 ⑮


 私の祖母の実弟もシベリア抑留で亡くなりました。許しがたい暴挙だと感じます。


 日本政府はポツダム宣言の違反行為である、この虐待行為に対して損害賠償請求をするべきだと思いま す。日本を取り巻く、ロシア、中国、朝鮮半島の国家は、話し合いでは決して解決しない国家群と肝に銘じて 外交を行うべきと考えます。


 占守島の戦いを巡っては、一つの感動的な話があります。


ソ連軍が侵攻を開始してきた時、日魯(にちろ)漁業(現マルハニチロ)で働く社員2500名のうち、約 400名の若い女子従業員たちがいました。日本軍は戦いを繰り返しながら、彼女たちを密かに漁船に分乗 させ、北海道へと避難させました。満州で10日ほど前に行われたソ連兵による暴行・略奪・殺戮の実態を把 握していたからです。ドイツベルリンでは成人女性の70%がソ連軍に暴行されたとの記録もあり、第二次世 界大戦を通して、最も無秩序な軍隊組織がソ連軍でした。トップがスターリンでしたので、推して知るべしです。

 ソ連軍の爆撃が続く中、高射砲で命懸けの援護を行い、彼女たちの命を守りました。その後停戦調印が行 われた8月22日以降、上陸してきた女に飢えたソ連兵が、案の定「女がいるはずだ」と我先に探し回ったそう です。


 戦争犯罪を全て敗戦国に押し付けてきた戦勝国。私は彼らの歴史認識を憎みます。とくに終戦間際のソ 連(現ロシア)の汚い行為を許しがたい行為として記憶に留めております。


 私は大東亜戦争の戦史上、このような池田大佐や、樋口中将を始め、隠れた偉人が多数いたことを、1 人 でも多くの日本人に知ってもらいたいと願ってやみません。


 ご興味のある方は、愛知県西尾市にある太山寺の士魂碑(写真⑯)を訪れていただきたいと思います。


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