大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑱

query_builder 2020/10/15
歴史編

 第18回目は、大場 栄(おおば さかえ、1914年 〈大正3年〉3月21日 – 1992年〈平成4年〉6 月8日︓写真①②) は、大日本帝国陸軍軍人、実 業家で政治家。最終階級は大尉。有限会社丸栄産業 代表取締役、蒲郡市議会議員で愛知県蒲郡市出身で す。



 大場栄大尉の活躍は、ドン・ジョーンズ原作(写真 ③)、2011年2月11日公開の映画、「太平洋 の奇跡・フォックスと呼ばれた男︓写真④」で有名です。 主演は私の好きな俳優、竹野内豊(⑤)です。 当時興行収入第1位になっており、私も観に行きました。この映画ではラストシーンが一番のお気に入りで す(後述)。



 日本軍の組織的な反攻はサイパン島守備隊の玉砕(全滅)と共に昭和19年7月に終了していました が、その後も生き残った47人の兵で、45,000人の米軍をゲリラ戦で翻弄し、米軍から畏敬の念を込 めて「フォックス」と呼ばれました。



 大東亜戦争末期、サイパン島で激戦が展開された背景には、同島が 日米両軍にとって、軍事上極めて重要な意味をもっていたことが挙げられ ます。とりわけ日本軍にとって、米軍に同島を奪われることは、国防上極 めて脅威を意味しました。なぜなら、直ちに同島に配備されるであろう「超 空の要塞・B‐29(航続距離9,000km):写真⑥⑦⑧」が 首都東京をはじめ、日本本土の大部分を攻撃圏内(サイパン島との距 離:3,000km)に収めてしまうからです。


 なお、それは大本営が昭和18年9月末に絶対国防圏を定めた 際、サイパン島をその中核拠点としたことからも伺い知ることができます。 昭和20年に硫黄島(本シリーズ第④回で紹介)が狙われたのは、B 29爆撃機の護衛戦闘機P51の航続距離(3,500km) を考慮し、日本本土から1,000kmの地点の飛行場を設営でき る島は硫黄島以外になかったからです。

 因みに75年前の大東亜戦争終戦時、大陸方面では日本軍は健 在でした。敗因は専ら米軍相手に制空権を握られ、制海権を失い、高 高度から空襲され、生産手段を奪われ、国力が衰退していったことが敗因です。




 (投降した大場隊の誇り高き47名(写真⑨) 前列左から4人目の白い襟の人物が大場栄大尉です。) 大場大尉は、大正3(1914)年3月21日 大 場伊助の長男として愛知県の農家に誕生しました。生粋 の軍人ではなく、元は学校の教諭でした。


<経歴>

昭和8(1933)年3月 愛知県実業教員養成所を卒業。 (後の愛知教育大学)翌月、御津町立実業学校に地理教諭として着任。


昭和9年  徴兵を受けて陸軍に入隊。歩兵第18連隊に配属。

昭和10年 将校を目指し、甲種幹部候補生となる。

昭和11年 豊橋市立吉田方尋常小学校教諭に着任。

昭和12年 8月 シナ事変に出征。同年12月、陸軍少尉に任(歩兵第18連隊附)

昭和14年 8月陸軍中尉に任官。

昭和16年 11月 歩兵第18連隊中隊長に就任。

昭和18年 3月 陸軍大尉に昇任。

昭和19年 2月 歩兵第18連隊衛生隊長に就任し、同連隊はサイパン島へ転出。

昭和19年 7月 サイパン島陥落。

昭和19年 9月30日 サイパンの戦い(6月15日~7月9日)で戦死と判定され、陸軍 少佐 に特進(ただし、生存が確認された後に取り消し)。


昭和20年 11月27日(発令は25日)、独立混成第9連隊長・天羽馬八(あもううまはち)少将 から正式な降伏命令を受ける。

昭和20年 12月1日 大場隊47人はアメリカ合衆国軍に投降しました。その際、山中で戦死者に 対し3発の弔銃を捧げ慰霊をしたうえで、各自軍装を整え大場大尉を先頭に 日章旗を掲げ隊列を組み、軍歌(歩兵の本領:下記)を歌いながら行進・ 下山しました。慣例として、投降式典において大場は(降伏の証として)、自 身の軍刀をアメリカ合衆国軍将校に手渡しました(写真⑨⑩⑪⑫)。


昭和27年から平成4年まで 有限会社丸栄産業代表取締役。

昭和42年4月から昭和54年3月まで 愛知県蒲郡市議会議員。

平成4年6月8日 死去。



 映画「太平洋の奇跡」にもありましたが、サイパン島陥落後1年5カ月(512日間)もの間、大場大 尉は150名の兵士と200名の民間人と共にサイパン島山中に籠り、組織的なゲリラ戦を展開しました。 その間、陸海軍混成部隊の統率を完遂しました。同時に部隊と行動をともにした大勢の民間人の生命を守り 抜きました。大場隊が玉砕を選んでいれば、民間人も呆気なくその巻き添えにされたことは言うまでもありませ ん。しかし、大場大尉は、民間人の生命を優先し、日本と日本人を守る御楯となり、帝国軍人としての本分を 全うしました。(民間人はその後、安全の確保が得られ、米軍投降が勧められました。)



 大場大尉は、米軍に投降するまで、必ず友軍がサイパンを奪還に 来ることをひたすら信じていたそうです。残念ながら当時の日本にその 力は最早ありませんでした。


 天羽馬八少将(すごい名前ですね!)からの降伏命令後、米 軍への降伏前日の11月30日の夜、野営地では焚き火が焚か れ、最後の食事が用意されましたが、その中身は全てゲリラ戦の中で 米軍から盗んだ缶詰だったそうです。出来立ての椰子酒のビンが何 本も空けられ、サイパンの思い出やこれからの生活について、夜を徹 して語り続けられたそうです。


 夜が明けると全員起床し髪を切り、髭を剃り、新しい軍服に身を 包んだ彼らは、見違えるように軍人らしくなっていました。大場大尉が 外に出ると、整列していた兵士たちの前に、目にも沁みるような白地 に赤の大きな国旗が風になびいて翻っていたそうです(写真⑪⑫)。


「私は今日まで諸君とともに軍務を遂行できたことを誇りとする。」 「諸君は見事に戦った。遺憾なく武士道精神を発揮した。しかし、諸君も承知のように、戦いはすでに終わ った。このサイパンにおいて、わが軍は玉砕し、ほとんどの戦友が戦死したことを考えると、誠に断腸の思いであ るが、天皇陛下の御命令により、ただ今より戦いを終結する。」


 「諸君は、最後まで戦い続けたことを誇りとし、爾後は、健康に留意し、一日も早く祖国に帰り、新生日本 の建設に邁進せられんことを望む(注1)。ここに天皇陛下の万歳を三唱する。」と告げ、「天皇陛下万 歳!」、「バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」がジャングルの中にこだましました。


 (注1)戦後日本の発展は、生き残った彼ら元軍人たちが、戦死した戦友たちの分までと、必死に働いてきた結果です。 我々はその遺産によって、繁栄のお裾分けをいただいているのです。 そのことを肝に銘じて、後世にこの大敗を喫した大戦争のことを、語り継いでいかなければならないと思います。


「ただ今より、慰霊祭を執行する」として約100名の戦死者に対してお経を唱え、亡くなった戦友たちのこ とを偲びました。

 そして読経が終わると「弾込め!」と号令がかかり、「撃ち方用意!」 全兵隊は銃口を斜め上に向け、「撃 て!」の号令を大場大尉は都合3回繰り返しました。40人以上全員が一斉に発射した銃声は山から山へ 木霊しました。(米軍もびっくり) このシーンは映画でも感動と共に描写されています。


https://www.youtube.com/watch?v=OYwDYM7uDzU


 敗戦後約3か月後の昭和20年12月1日、正式に米軍に投降した大場栄陸軍大尉が指揮する4 7名は、潜伏するタッポーチョ山を下りました。

 下記に、部隊がタッポーチョ山から下り、投降式典会場に向かう際に全員で歌い上げた軍歌「歩兵の本領」 の歌詞を紹介させていただきます。映画「太平洋の奇跡」ではラスト部分の行軍・投降のシーンで出てきまし た。苦しい環境の中でも弱音を吐かず、部下を最後まで統率し、日本人としての誇りをもって戦い抜く、リーダ ーとしての大場栄大尉は、尊敬に値します。最後は日本人の誇りをもって降伏に応じ、礼儀礼節を守り、日章 旗を先頭に更新し、正々堂々と降伏に応じました(写真⑬⑭)。




<歩兵の本領 作詞:加藤明勝 作曲:永井建子>

https://www.youtube.com/watch?v=01HugflJ3iM


1.萬朶(ばんだ)の櫻か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵線(さんぺいせん)の花と散れ


2.尺餘の銃は武器ならず 寸餘の剣何かせん 知らずやここに二千年 鍛へ鍛へし大和魂(やまとだま)


3.軍旗守る武士(もののふ)は 總てその数(すう)二十万 八十餘ヶ所に屯(たむろ)して武装は解かじ夢にだ も


4.千里東西波越へて 我に仇なす國あらば 港を出てん輸送船 暫し守れや海の人

5.敵地に一歩我れ踏めば 軍(いくさ)の主兵はここにあり 最後の決は我任務 騎兵 砲兵協同(けふどう)せよ


6.アルプス山を踏破せし 歴史は古く雪白し 奉天戦の活動は 日本歩兵の華と知れ


7.携帯口糧あるならば 遠く離れて三日四日 曠野千里に亙るとも 散兵線に秩序あり


8.退くことは我知らず 見よや歩兵の操典を 歩兵の戦は射撃にて 敵をひるませ其隙に


9.前進前進叉前進 肉弾とどく處まで 我が一軍の勝敗は 突撃最後の数分時


10.歩兵の本領茲にあり ああ勇ましの我兵科 會心の友よさらばいざ 共に励まん我任務


 大場大尉以下47名(赤穂浪士の47士と同じですね!)はこの歌を大声で歌いながら降伏会場に行 軍していき、日本軍の戦意と誇りを示し、会場に待ち構えていた米軍を感動させました(写真⑨~⑭)。 なお、かつてビルマ国軍(現ミャンマー)は、この歌を行進曲として採用していたそうです。 この歌は海外で も評価が高く、日本人らしさがうかがえると軍事マニアの間では評判です。

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