大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑲

query_builder 2020/12/15
歴史編

 第19回目は、加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治3 6年)9月28日 – 1942年(昭和17年)5月22日)、 日本の陸軍軍人、戦闘機パイロットです。最終階級は陸軍少将。位階勲 等は従四位勲三等功二級。北海道上川郡東旭川村(現︓旭川市東 旭川町)の出身。旭川中学(現︓北海道旭川東高等学校)、仙台 陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校(専科)卒。 私の大好 きな軍人で尊敬する人物の一人です。(写真①②③)



 大東亜戦争(太平洋戦争)緒戦時、戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊を率い、 一式戦闘機「隼」をもって活躍し、感状7回授与を受けました。帝国陸軍(陸軍航空部隊)のみならず 日本軍を代表するエース・パイロットの一人です。戦死後「軍神」として称えられました。





 私が加藤建夫少将を知ったのは、幼少の頃に観た 「あゝ陸軍隼(はやぶさ)戦闘隊(1969年・大映・ 佐藤允主演)」がきっかけです。武士道を体現した主人 公加藤中佐(当時)が、部下を大切にし、戦場から帰 国しても家族の元には戻らず、黙々と戦死した部下の遺 族を見舞う姿が非常に印象的でした。中国戦線で実績 を上げ、大東亜戦争開戦時に、パラシュート部隊支援の ため、体を張った指揮官先頭を果たし、緒戦におけるオラ ンダ軍を壊滅し、インドネシアパレンバンの石油基地を占 領するシーンは、鮮明に記憶に残っております。


 その後1944年の戦意高揚作品として製作された「加藤隼戦闘隊(藤田進主演写真④⑤)」を 観ましたが、戦闘シーンは、特撮と違い実際の戦闘機を使用したこの作品のほうが、より迫力がありました。 父が家に保管していた日本の軍歌のレコード2枚の中で、最も好きな歌が、「海ゆかば」と「加藤隼戦闘隊 (後述)」でした。



 加藤中佐は所沢陸軍飛行学校(現・航空公園の場 所)の学生時代に、校舎の屋根の上にある鬼瓦を飛行 機の車輪で蹴飛ばすといういたずらをやり、以後他の学生 もそれをやり始めたそうです。 その際校長は、搭乗員の 命がけの悪戯を意気に感じ、その心意気を称え、破壊さ れる都度、鬼瓦修復をやり続けたそうです。


 (加藤建夫少将の経歴)

1903年(明治36年) 9月28日 北海道旭川にて誕生

1918年(大正7年)   仙台幼年学校入学

1925年(大正14年)  仙台幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業(37期)

1927年(昭和2年)   所沢陸軍飛行学校卒業 卒業時には技量成績優秀として御 賜の銀時計を拝受し後のエースとしての頭角を現す。 1928年(昭和3年)所沢飛校教官

1932年(昭和7年)   明野陸軍飛行学校教官

1936年(昭和11年)  飛行第5連隊中隊長

1937年(昭和12年)  飛行第2大隊第 1 中隊長

1939年(昭和14年)  陸軍大学校専科卒業、陸軍航空本部員

1941年(昭和16年)  飛行第64戦隊長

1942年(昭和17年)  5月22日 ベンガル湾上空で乗機が被弾発火、帰還見込みなく自爆戦死


 加藤建夫中佐は、昭和17年(1942)5月22日に戦死しました。まだ大東亜戦争が始まって 5カ月余りです。 「加藤隼戦闘隊」こと、傑作機・一式戦闘機「隼」を愛機とする、陸軍最強の飛行第6 4戦隊長として知られています。 加藤中佐の人となりは、「誰とも気さくに話し、無用の威圧感を与えず、 優しかった」といわれています。そして何より我々現代人が学ぶところがあるとすると、そのリーダーシップ像とい われています。


一、いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと、

二、何事も任務遂行を第一とすること、

三、個人の功名手柄に走って、団結を乱さないこと


 これは昭和16年(1941)12月8日の開戦直前、 加藤中佐が飛行第64戦隊の部下たちに示した3つの訓戒 として知られています。部下たちは教えを守り、開戦後、マレー、 パレンバン、ジャワ(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)の空で連 合軍機と死闘を演じて、赫々たる戦果を上げました。僅かな 期間で250機以上の敵機を撃墜したといわれています。そ して、空戦の先頭には常に、翼と胴に白い襷〈たすき〉を描いた (写真⑥)加藤建夫戦隊長の愛機の姿があったといわれて います。



 日本の航空隊では、欧米と違い、個人の撃墜数を評価しませんでした。特に無線機の性能が悪かった 当時では、一人が功名にはやって、敵機の撃墜にこだわって深追いしている間に、味方を窮地に追い込むこ とを深く戒めたのでした。 欧米では個人スコアをクローズアップし、英雄を作って、戦意を高揚させていました ので、チームワークを重んじる日本とは対照的でした。


 上記の経歴のように、陸軍士官への道を歩んだ加藤建夫中佐は、志願して航空兵となり、昭和12年 (1937)の支那事変で飛行第二大隊の中隊長として初陣を飾りました。帰徳航空戦では敵9機を撃 墜して、一躍陸軍航空隊のエースとなりました。その後、陸軍大学と航空本部勤務を経て、加藤中佐が飛 行第64戦隊の戦隊長として広東に赴任するのは、大東亜戦争開戦の 8 カ月前の昭和16年4月、 加藤中佐39歳の時でした。既に中年の域に達していました。


 「新たな戦隊長は歴戦のエース」と聞いた部下たちは、さぞか し鬼のような豪傑かと緊張しますが、現われた加藤が温和で親 しみやすい人柄だったため、たちまち打ち解けます。飛行第64 戦隊は新型戦闘機「隼」を用い、猛訓練を重ねました。ちなみ に64戦隊の隼は尾翼に矢印を描き、それが部隊のトレードマ ークとなります(写真⑦)。



 そして12月8日の開戦。加藤中佐に与えられた任務は、開戦劈頭、マレー半島に上陸する輸送船 団の上空護衛を前日から行なうことでした。しかし7日当日、天候は荒れ模様。航空機には危険極まりな い状況ですが、加藤中佐は自ら先頭に立ち、愛機「隼」に乗り込みます。「率先垂範、指揮官先頭」こそ、 加藤中佐が生涯貫いた指揮官としての姿勢でした。


 この日を皮切りに、飛行第64戦隊はマレー半島に上陸した部隊の障害となる敵飛行場を次々に攻 撃、敵戦闘機を撃墜していきます。補給部隊が追いつかないほどのその鮮やかな進撃ぶりから、「加藤隼戦 闘隊」の名は陸軍最強の航空隊の代名詞となりました。


 中でも加藤中佐の存在感は圧倒的で、他部隊から異動してきた「空の宮本武蔵」の異名をとる黒江保 彦大尉(戦後空将)は、次のように語っています。 「雲の上を征く加藤隊長機には、恐るべき闘志と迫 ⑥ ⑦ 力が感じられて仕方なかった。殺気じみているようなすごい気迫のほとばしるのが見え、胸がたぎり立つ感じ がした。『勇将のもとに弱卒なし』 この隊長の元、なるほど部下は奮い立つ以外にない・・・。」


 上記に述べたように、加藤中佐は部下たちに、「何機撃墜したかと聞かれたら、部隊の撃墜数を述べよ」 と個人の功名争いを禁じ、チームワークを重んじました。また敵機との戦いに夢中になって任務を疎かにする 者には、雷を落としました。しかし部下を叱った後は、さりげなく果物などを振る舞って、奮起を促したそうです。


 昭和17年5月22日、ベンガル湾に面したアキャブ基地から部隊が東方のトングー基地に移動を始 めていた時、加藤中佐は前日にジャングルに不時着降下した部下の安否を知るため、最後まで残っていま した。そこへ突如、英空軍のブレニム爆撃機が来襲し、加藤中佐は迷わず愛機「隼」を駆って迎撃に向かい ました。そしてインド洋上まで敵を追い、背後から攻撃をかけた瞬間、敵の後部銃座の弾丸で愛機の翼が 火を噴き、加藤中佐は海上に自爆しました。享年40歳でした。


 その後日本陸軍航空隊は、加藤中佐が最期まで身を以って示した不屈の闘志を受け継ぎ、加藤中佐 を自らの目標として、東南アジア・インド全域で活躍しました。そして「加藤隼戦闘隊」は終戦までの3年半 を、この地で戦い抜いたのでした。


 飛行第64戦隊歌として有名な「加藤隼戦闘隊」の歌は、1940(昭和15)年3月15日、南 寧前進基地にて操縦者田中林平准尉によって作詞されました。 同月18日、南支派遣軍楽隊(守屋 五郎軍楽隊長)に作曲を依頼、同隊の原田喜一軍曹と 岡野正幸軍曹が作曲を担当しました。 作詞 者の田中准尉は部隊生え抜きのパイロットでした。作曲された岡野軍曹は後にニューギニアで亡くなられま した。原田軍曹は、戦後NHK交響楽団で、チェロ奏者として活躍されました。1941(昭和16)年 1月1日封切られた同盟ニュース映画で一般に紹介されました。


加藤中佐の葬儀には近衛師団の近衛兵による儀仗に加え、弔辞は参謀総長杉山元(はじめ)大将 が奉読、内閣総理大臣東条英機大将をはじめ多くの陸海軍高官らが参列しました。その模様は「脱帽 空の軍神 加藤少将陸軍葬」と題し日本ニュース第121号


3︓50~5︓38で放映され ています。墓所は、旭川市豊岡の愛宕墓地(写真⑧)および東京都府中市の多磨霊園(写真⑨︓ 遺族は当時小金井市に居住していました)。旭川市東旭川町の旭川神社境内にある兵村記念館には、 加藤中佐に関する貴重な資料が展示されていますので、是非お近くに行かれた際はお立ち寄りください。


因みに、私の愛車として3台乗り継いだスバル車(前・富士重工業)ですが、元は海軍大尉の中島知 久平が創業した中島飛行機の、業態を変えた現在の会社が製造した、悪路走行性能にこだわった良い車 です。この会社が名機97式戦闘機、一式戦闘機「隼(はやぶさ)」、二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」、 四式戦闘機「疾風(はやて)」を生み出したことは有名です。特に冬の雪道では、外国車や日本の他メー カーを凌駕する絶大な好成績を残しており、私は雪道で何度も命を救われました︕



[⑧ 旭川市豊岡の愛宕墓地]


[⑨ 東京都府中市の多磨霊園]


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