歴史の町・佐渡へ二度目の訪問
9月2日から 2 泊 3 日で、当社グループの(株)BSジャパンブランドで取
扱う「液体冷凍装置」の自治体プレゼンテーション(写真②③)のために、人生2度目の佐渡島(写真①)に訪問してきました。
作家で(「順徳天皇」写真④)の著者、6次産業化プランナー、プライバシー・コンサルタント、IS
Oコンサルタントであり、複数の会社・団体の役員をされている山田詩乃武様(写真⑥)とのご縁をいた
だき、承久の変で佐渡に流され、この地で崩御された順徳天皇(上皇)の真野御陵(写真⑤⑥)、
順徳帝慶子皇女の墓(写真⑦)や、黒木御所跡(写真⑧)、将軍足利義教の怒りを買い、佐渡の
流された能と歌舞伎の元祖ともいわれる申楽師の世阿弥の供養塔と腰掛石のある佐渡正法寺(写真
⑨⑩)、世阿弥の影響か、至る所に能舞台があり、佐渡大善神社能舞台(写真⑪⑫)は素晴らしい
「氣」の漂う場所でした。
本来は世界遺産に登録が有力視されている佐渡金山(⑬~⑯)は、戦時中に朝鮮人徴用工も採
掘に使用していたことから、現在の韓国との徴用工問題のため、ユネスコへの申請のタイミングを慎重に図っ
ているようです。
佐渡金山は江戸初期の大久保長安が佐渡奉行となり、生産量が飛躍的に増加、佐渡の人口が当時
10万人(日本の人口:1230万人/江戸15万人)を超えました。因みに現在は約5万人で
す。大安寺には、全国的にも珍しい大久保長安像が保存され、大久保長安逆修塔(写真⑲)は背後
にマリア像、塔の二段目にクロス(十字架)が見えます。山田詩乃武さんのご説明では、大久保長安は
隠れキリシタンではなかったかとのことでした。私もその説を複数の方面から聞いており、納得した次第です。
その後佐渡市出身の本間雅晴中将の記念碑(畑野の本光寺:写真⑳)に向かい、そこに小説「人 生劇場」で有名な尾崎士郎の碑文(写真㉑:下記ご参照)がありました。本間中将の人徳と業績を称 えるものです。
われらは此処に本間雅晴将軍の名を記録することを誇とする
将軍は太平洋戦争の悲劇的運命に殉じて刑場の露と消えたが
剛毅果断にして温情豊かなる人格への思慕は
国民の心にと共に新しく
従容として死に就いた将軍の姿は
愈々光彩を加え来たるであろう 昭和三七年四月 尾崎士郎 記之
更に、2.26事件皇道派将校の精神的主柱といわれた思想家の北一輝(きたいっき)の碑文のあ る若宮神社(写真㉒)、日蓮上人が佐渡流罪の際に、赦免までの2年間住んだ場所に建立された寺 院(写真㉓)である妙照寺、順徳天皇(上皇)の第二皇女である皇女忠子女王の墓(宮内庁管理 の墓所ではあるが、廃れた感じで残念でした!写真㉕㉖㉗、宮内庁“喝”)のある二宮神社(写真㉔) も相当なパワースポットでした。
真野御陵近くの売店横に置かれている、力道山が購入の意思表示をし、東京の自宅まで運ばれました
が、当人死亡により、差し戻された赤玉石(写真㉘)は4億円以上の価値があるそうです。
宿泊場所は「相川温泉ホテルめおと」で、景勝地・七浦海岸の横にあり、少し古いですが食事とお酒は
素晴らしく、全て残さず食しました!(写真㉙㉚:真ん中の岩が妻、右端が夫:よく見てください!)
佐渡の山は標高1000Mほどで、素晴らしい景観でした(写真㉛)。
佐渡は国境の町としての顔も持っております。
航空自衛隊のレーダー基地(写真㉜)があり、山頂には通称ガメラレーダー(写真㉝)といわれる高性
能レーダーが配置されており、有事の際には迎撃の体制も密かに整備されているようです。唐家璇(とうか
せん:中国の外交官:写真㉞㉟)が2010年に来島していますが、ただの友好だけではなく、国境の
町を軍事的に視察しに来たともいわれております。日本は海で囲まれていますので危機感を持つことは少な
いのでしょうが、中国は常に先手を打ってきます。やられてからでは遅いということを肝に銘じていきたいと思い
ます。
佐渡には当社の別事業でも、今後訪問する回数が増えそうです。当社の新潟勤務経験者によると、
「4~10月の佐渡と11~3月までの佐渡では、顔が全く違います。」とのことでした。過去2度の訪問
は9~10月でしたので、最も良い季節であったようですが、佐渡の別の顔を拝みに、再度訪問したいと思
います。