大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑰
第17回目は、「闘将・角田覚治中将、先手必勝を上回る、 見敵必戦を貫いた男」です。角田 覚治(かくた かくじ、189 0年(明治23年)9月23日-1944年(昭和19 年)8月2日)、日本の海軍軍人です。最終階級は海軍中 将(写真①②)です。日本の艦隊が悉く沈められたのち、テニア ン島防衛戦で戦死されました。 ミッドウェー海戦で戦死された第2航空艦隊司令官山口多聞 中将と並ぶ、日本海軍の「闘将」と呼ばれました。部下たちは、陰 で丸田丸治(まるたまるじ)と呼んで慕っていたようです。
日本海軍に「闘将」と呼ばれる人は殆どいません。何故なら日本海軍は、日露戦争 以降、「ハードウェア志向」に陥っていたからだと指摘されています。兵器の優劣が戦争 の優劣を決めてしまう近代戦においては、やむを得ない傾向であったのかもしれません。 米国海軍には角田中将と似た人がいました。かの有名なハルゼー提督(写真③) です。二人とも見るからに頑固一徹といった雰囲気です。
角田覚治中将は、新潟県南蒲原郡槻田村字諏訪新田(現・三条市諏訪)で農家の父:角田利八と 母:角田ソメの七人兄弟(兄1人妹2人弟3人)の二男に生まれました。1908年3月、旧制三条 中学校(現:新潟県立三条高校)卒業。在学中に新潟港遠足に行った際に見た白い制服の海軍士官 に憧れて受験し、1908年(明治41年)9月14日、海軍兵学校第39期生として入校しまし た。入校時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日、148人中4 5番の成績で海軍兵学校を卒業しました。在籍中に成績を上げた努力の人でした。
大東亜戦争開戦後でこそ、機動部隊の指揮官として有名な角田中将ですが、戦前の航空機黎明期に は、航空機をただの補助兵器として軽視していました。その理由に角田中将は、士官候補生の時代から巡洋 艦や戦艦を乗り継いできた、生粋の砲術家であったからのようです。そのため当初は航空機の重要性をあまり 理解せず、航空主兵派の将校からは「石頭で古臭い鉄砲屋」と揶揄されていたともいわれています。 そんな 角田中将ですが、転属命令をきっかけとして、任務をこなすために航空機の勉強と研究に日夜励みました。そ の後戦艦「山城」と「長門」の艦長を歴任し、再び航空艦隊に着任したのは、太平洋戦争開戦直前の19 40年のことでした。第4航空艦隊司令として大東亜戦争に突入、ソロモン諸島周辺の南方作戦が一段落 した1942年6月、角田中将はミッドウェー作戦の陽動作戦として実施されたアリューシャン諸島への攻撃 を命じられました。そこで加わった空母隼鷹(写真④⑤)を指揮下に加え、アッツ島・キスカ島の攻略とアラス カのダッチハーバー空襲を成功させました。ところが肝心の本体である第一・第二航空艦隊が、ミッドウェー海戦 で敗れ、四隻の空母を失ってしまいました。
この後、主戦場はソロモン海へと移り、ガダルカナルの飛行場を巡って日米は熾烈な消耗戦を繰り広げるこ とになります。この消耗戦に敗れ、日本は敗戦への道をまっしぐらに進むことになりました。 そのような状況下 で、日本海軍にとって最後の勝利となった「南太平洋海戦」が行われたのです。
1942年10月、南方方面に敵機動部隊を発見した日本海軍は、南雲忠一中将指揮下の第三艦 隊と近藤信竹中将率いる第二艦隊に迎撃命令を発しました。私はミッドウェー海戦で重大な判断ミスによって 4隻の空母を失った敗軍の将である南雲忠一中将を、 この期に及んでまたしても機動部隊のトップに据えた 山本五十六連合艦隊司令長官の人選を疑います。その際に孤軍奮闘し、何度も南雲中将に<意見具申 >を行った山口多聞中将が、責任を取って艦と運命を共にし、最大のミスを犯した南雲中将が生き永らえ、ま たしても司令官として返り咲くなど以ての外です。対立派閥から送り込まれた南雲中将を切ることができなかっ たところが、組織としての日本海軍の、山本五十六連合艦隊司令長官の限界であったと考えます。 戦国時代の武将は、戦に強い者よりも運の強い者を進んで集め、周囲を幸運のパワースポットにしてその 運にあやかりました。戦には<運>が最重要とされていたのです。非科学的といわれるかもしれませんが、運の 良し悪しは戦だけでなく人生を左右する大きな要因の一つです。古今東西の歴史を学んでいて判明したこと は、運を味方にするということです。左脳で考えると非科学的ですが、右脳で感じれば理に適っているように思います。
ミッドウェー作戦の翌月に第二航空戦隊へと転属していた角田中将もこ れに続き、正規空母2隻(3隻目の空母ヨークタウンはミッドウェー海戦で 飛龍攻撃隊によって大破し、伊号168潜水艦の雷撃によって撃沈)を 主力とする米機動部隊とサンタクルーズ島沖で激突することになった。世に 言う「南太平洋海戦(サンタクルーズ沖海戦)」の始まりです。 日本軍第三艦隊は敵空母「ホーネット(写真⑥)」に損傷を与えたもの の、旗艦「空母翔鶴」に直撃弾を受け、指揮系統が破壊されるという事態 となりました。南雲忠一中将は、つくづく運の無いリーダーだと思います。
ここで登場するのが、南雲中将に代わり指揮権を譲渡された角田覚治中将です。航空隊を任された角 田中将は、わずかな駆逐艦を従えて「空母隼鷹(じゅんよう:客船から改造)」を敵空母に向けて突撃さ せました。通常の空母同士の艦隊決戦では、航空隊を発進させた後は、敵航空機の攻撃を避けるべく、そ の場から退避し、射程外に逃れます。ところが角田中将は、被弾炎上し、かえる場所を失った翔鶴の攻撃機 ➃ ⑤ ⑥ ④ などを収容しつつ、わずか30機ほどの攻撃隊を米機動部隊に向けて反復攻撃を命じました。合計3度に 渡って執拗なまでの攻撃を続行したのです。
「槍を抱え敵陣に突っ込んで行く騎馬武将の様だった・・・・」
そのように表現されるほどの熾烈な攻撃によって、隼鷹の攻 撃隊が10機近くになるほどの損害と引き換えに、「空母ホーネ ット」と「空母エンタープライズ」を中・大破(ホーネットは後に航行 不能となり駆逐艦によって処分)されるという大戦果を上げまし た。これによってアメリカ軍は南太平洋方面における稼働空母が 皆無となり、この日を「米海軍史上最悪の海軍記念日」と嘆か せたほどの大勝利でした。
航空母艦に乗っていると、敵の標的となり、命の危険にさらされる確率が増します。空母対空母の海戦 は日米戦の中でも数回(珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦等)しか行われ ておらず、確固たる戦術が存在した訳ではありません。そのような中で、全 速力で敵艦隊に向かい反復攻撃を繰り返すという、効果的な戦術を編み出した、類まれな勇気と戦術と闘 魂を備えた角田中将ですが、兵学校の教頭時代は生徒が病気になると、夜中でも制服に着替えて見舞い に行き、また「もし戦争で生き残ったら、全国を回って戦死した部下の家を訪ね、供養したい」と生前夫人に 語っており、戦死者たちの写真と身上書を手元に置いていたとの話もあり、心優しい将官であったようです。
話は戻りますが、陽動作戦でアラスカのダッチハーバー攻撃の際にも、無線機が故障して母艦に戻れない 艦上攻撃機1機のために、敵に発見される危険を冒して、誘導電波と探照灯をつけるよう命じ、部下の帰り を待つ姿は、多くの将兵たちは、感動をもって見守ったそうです。 角田中将の指揮する艦内では、理不尽な 暴力は一切禁止されており、意見具申は奨励され、何でも言い合える環境が整備されていたそうです(写 真⑦)。そして角田中将自身、部下の意見によく耳を傾ける一方で、大事な決断の際はすべて自分が責 任を負いました。そのようなトップがいたら、部下は必死で働いてくれることでしょう。
その後日本海軍は、その保有艦艇のほとんどを失いました。 角田中 将は、1944年のマリアナ諸島防衛戦では、地下壕を築いてアメリカ 軍の上陸部隊と直接戦いました。テニアン島(サイパン島の近く:写真 ⑧)で、わずかな航空部隊で味方艦隊を支援しつつアメリカ軍(写真 ⑨)を食い止めていた角田中将でしたが、やはり物量差を覆すことは叶 わず、また優れた将官を何とか救いたいとのことで実施させた海軍の救 出作戦も失敗しました。1944年7月31日に、本土へ決別電 「今より全軍を率い突撃せんとす。機密書類の処置完了。これにて連 絡を止む」を発すると、手榴弾を二個持って「じゃあな・・・」と笑顔を残し て洞窟から姿を消したそうです。
ただこのとき、玉砕前に角田中将は、残った民間人に「皆さ んは私たちのように玉砕しなければならないということはないので すよ」と呼びかけ、サイパンや沖縄と比べて多くの人々が投降して 生き延びることが出来たとされています。(日本軍戦死者81 00名、生存者313名、アメリカ軍戦死者389名、戦傷 者1819名)
角田中将はその敢闘精神の強さから、山口多聞と並ぶ機動部隊トップクラスの闘将として名高い存在 です。その勇猛な戦いぶりは当初彼を毛嫌いしていた航空主兵派からも認められ、尊敬すべき精神を持った 逸材であったとまで評する者も少なくなかったようです。敵対していた者たちからも認められた、闘争心と仁愛 に満ちた名将。それこそが角田覚治中将というリーダーなのです。 米軍がテニアン島に真っ先に上陸して来たのは、ここに大型機の離発着可能な広大な飛行場があったから です。そしてそこから大型爆撃機B29を飛ばし、114の都市に爆弾ではなく、焼夷弾を投下して日本を 焦土化したのです。1945年8月6日広島、8月9日長崎と2発の原爆は、テニアン島から運ばれ、 落とされました(写真⑩~⑫)。悲しい歴史です。
空母隼鷹の慰霊碑は呉海軍墓地(写真⑬)にあります。日本海軍の海戦の中で最後の大勝利がこの 隼鷹が活躍した、「南太平洋海戦」です。どうか記憶に留めていただきたいと思います。 最後に、日米開戦に際し、角田中将が詠んだ詩が下記の詩です。
毀誉褒貶不足論 (毀誉褒貶(きよほうへん)論ずるに足らず)
功名栄達非吾事 (功名栄達(こうみょうえいたつ)我が事にあらず)
生無死無任務有 (生無く死無く任務あり)
粉骨砕身期完遂 (粉骨砕身(ふんこつさいしん)完遂を期す)
(意味) 他人の評価も、名誉や出世も念頭になく、それどころか自分の生死すら問題ではない。全力をも って課せられた任務を全うするのみ。
帝国海軍は南雲中将をサイパン島で失い、角田中将をテニアン 島で失いました。ともに機動部隊を指揮して太平洋を暴れまわった 将軍です。出来る事なら、お二人とも海で死にたかったことでしょう。 <合掌>
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