負け戦の要因と虚偽報告‼
大東亜戦争において、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦後の海軍は、ほぼ全ての戦いにおいて、負け続けました。昭和18年以降の彼我(日米)の戦力が完全に逆転してからは止むを得ないとは思われますが、それにしてもこれほど負けるかというほど負け続けました。 その負け戦の要因は以下となります。
そして昭和19年10月以降は、戦うこと、死ぬことが目的の戦となってしまいました。
特に多くの戦争記録を照合していくと、例えば、昭和18年○月○日ラバウル上空航空戦における日本陸海軍の発表した戦果の合計が、小型機45機、大型機12機、合計57機撃墜、味方の損失12機となっていた場合、同日の同地域での米軍の記録では、損失は戦闘機5機、艦上爆撃機7機、大型爆撃機3機、合計15機の損失とされていることが極めて多かったようです。
実は当時の日本陸海軍の搭乗員は、敵機が日本機から逃げるために急降下したものを、撃墜と誤認して報告していたようです。実際には12機×15機で五分五分であったにも関わらず、味方の大勝利であったかのような報告が常態化していました。中でも最大の誤報である台湾沖航空戦での戦果報告に至っては、日本海軍と大本営は組織の体をなしていないレベルにまで落ちていたように思います。既に近代戦を戦えるレベルではありませんでした。
敵の主力艦である空母を25隻も沈めたら、あの戦争には勝利していたでしょう。それほどの戦果をろくに検証もせず発表したことが信じられません。
戦後の旧帝国陸海軍軍人主体の大東亜戦争の検証結果の多くは、米軍は物量に物を言わせて兵器の大量生産で日本を凌駕し、ジリ貧になるまで追い込まれたというものでした。
実際には、上記のように誤った戦果報告がなされたため、敵機を落としても、落としても直ちに補給されてしまうとの認識が強かったようです。米軍と比較して日本軍は補給が途絶えがちで、搭乗員の交代も出来ず、今でいう過労状態が常態化し、兵士の士気は上がらず、口には出さないが敗戦ムードが漂う雰囲気状態であったようです。生きることへの希望が無くなった時、人は早く死にたいとの思いに駆られるようです。その 感覚が最前線の現場では非常に多かったように思います。
現実はどうかというと、上記の数字の通り誤報というよりも、全く虚 偽の報告が行われ、その数週間後に行われたレイテ沖海戦、レイテ 島防衛戦などの陸海における戦いでは、海軍は数字が誤報であるこ とが、既に判明していたにもかかわらず、面子を重視して陸軍に対し て誤報であったとの報告を怠りました。そして敵空母が壊滅しているた め、航空機による爆撃は僅かばかりであるものと陸軍は認識して作 戦を遂行し、大敗北を喫しました。数万人の死者が出て、フィリピン の大半はマッカーサーに占領されてしまいました。フィリピンにおける最 終的な戦死者は33万人(米軍14,000人)です。
負け戦において、日本のエリート集団の脆弱(ぜいじゃく)さが浮き彫りになりました。基本的に優等生 である日本のエリート集団は、今も昔も体質は変わらず、自分の認識や判断を誤っていると認めることに強 い抵抗感を示し、自分よりも学業成績の点で劣っている者たちをやたらと軽蔑する傾向にあります。それな のに「現場」がどうなっているのかという実態を知らず、知ろうともせず、そのために「現場」から強い態度を示さ れると、それを押し切ることができなくなるようです。縦割り意識が強く、他のエリート集団には強い競争意識 を示し、自己の弱みを見せまいと懸命に我を張り続けます。他の集団には極めて厳格で、自分たちの仲間 内には非常に甘い。そのような身内優先の実態組織が、台湾沖航空戦において、見事に海軍情報課の 判断を軽視し、陸軍との関係が悪化することを恐れて真相を示さず、「現場の実戦部隊」の強硬な報告 (現場では戦果が評価され出世に繋がる)に抵抗することができず、陸海軍だけでなく国民をも欺いたのです。
情報の隠蔽は現代の日本においても常態化しています。汚職裁判などでも、資料紛失とか黒塗のコピー を平気で提出してきます。三権分立といいながら、NHK受信料における裁判所の判断をみても、この国 は一度ガラガラポンしないと、自らの自浄能力では変われないのではないかと感じます。戦争を「悪」と一括り にして、何故負けたのかを殆ど検証してこなかったツケが、今現実に回ってきました。
これから我が国を背負っていく若者世代に、どろどろで再生不能な日本ではなく、清らかで、美しい国日 本として再生させたうえで、良い国として繋いでいきたいとの思いが、益々強くなってきました。