大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉙
第29回は、菅野直(かんの なおし、1921年(大正10年)10月13日 – 1945年(昭和20年8月1日)日本の海軍軍人。海兵70期。大東亜戦争における撃墜王。戦死認定による二階級特進で最終階級は海軍中佐です。そして「指揮官先頭)を最後まで貫いた、私の尊敬するリーダーの一人で、型破りな人情家の人物です。
菅野直大尉(写真①~③)は日本海軍のエースパイロットの一人です。大東亜戦争では戦闘機の零戦、紫電改に搭乗し、敵機撃墜72機(個人撃墜48機)という海軍兵学校出身の指揮官では、最高の戦果を挙げた「撃墜王」でした。 菅野大尉は、敵機上方から猛スピードで急降下、敵の機銃をものともせず至近距離まで接近して攻撃し、敵機主翼の前をそのまま猛スピードですり抜けるという、捨て身の戦法で、米大型爆撃機B29やB24と戦い続けました。菅野大尉が乗る紫電改(写真④)には黄色のストライプ模様があり、米軍パイロット達の間では「「イエローファイター」と怖れられていたようです。
大正10年(1921)、警察署長として平壌にほど近い竜口に赴任した菅野浪治の次男として生まれた菅野直大尉。少年の頃はとにかく激昂しやすい性分のガキ大将だったようで、兄が喧嘩に負けて帰宅するとその仇討ちに出かけたり、猛犬と格闘してナイフで突き殺したり、破天荒な逸話が残っています。
一方で、学業成績は優秀、石川啄木に傾倒して短歌を詠んだりする文学青年でした。しかし、当時の貧しい家庭の常で、兄に大学進学を薦め、自身は学費免除の海軍兵学校に入学しました。飛行学生時代も、その破天荒な性格は変わらず、模擬戦で教官の機体と接触寸前の接近を繰り返すなどして着陸時に5機も練習機を破壊。「菅野デストロイヤー」という渾名をつけられています。
彼の面白いところは、指揮官に任命されてからも、破天荒なエピソードには事欠かないところです。
Ⅰ)機械油で揚げた天ぷらを食べて腹を壊したり!
Ⅱ)気に入らない上官をプロペラの風圧でテントごと吹き飛ばしたり!
Ⅲ)足を被弾して、軍医にうめき声をたしなめられ、麻酔なしで手術を受けたり!
Ⅳ)不時着した島(ルバング島:戦後29年小野田少尉発見の島)の原住民に「俺は日本のプリンスだ」
と豪語して島民の尊敬を集め、王様のようにふるまったり!
Ⅴ)料亭で騒いで注意され、少将、佐官のいる部屋に乗り込んでテーブルを蹴り飛ばしたり!
etc
私の戦闘機乗りのイメージにぴったりなキャラでした。
この菅野大尉の役を映画「太平洋の翼(写真⑤~⑦昭和38年公開)」では加山雄三が演じていましたが、優等生の若大将的なイメージが残っておりました。やはり当時の絶大な人気の加山雄三のキャラを壊すわけにはいかなかったのでしょうね。
ただこうしたキャラは、歴戦の部下たちから慕われ、また上官からも、常に部隊の先頭を切って戦う姿に絶大なる信頼を得ていたようです。
菅野直大尉を有名にしたのは、四国松山の第343(さんよんさん)海軍航空隊・通称「剣(つるぎ)」部隊での活躍です。司令は航空参謀であった源田実(げんだみのる)大佐です。
本土防衛と制空権奪還のための精鋭部隊として編成された剣部隊は、当時の海軍航空隊の中からエース級のパイロットを多数引き抜き、最新鋭戦闘機「紫電改(紫電21型)(写真⑧⑨)(注1)」で編成されました。菅野大尉は戦闘301飛行隊・通称「新選組」の隊長として参画しますが、すでにこの頃、B29による日本本土爆撃は本格化し、米軍はいよいよ沖縄に迫っていました。昭和20年(1945)3月19日、343空の50機は初陣で、敵機約350機を松山上空で迎え撃ち、52機を撃墜するという大戦果をあげました。
注1)戦後の米軍の検証では、高オクタン価(当時の日本では燃料不足のため 低オクタン価のみ)のガソリンで、当時の米軍機と空中戦実験を行ったが、速度、火力も含め、米軍機は紫電改に全く勝てなかったそうで、陸軍の四式戦「疾風」とともに日本の最優秀機と評価されている。(写真は兵庫県加西市鶉野飛行場跡)
中でも戦闘301飛行隊・新選組の活躍はすさまじく、杉田上等飛行兵曹は5機、菅野大尉も敵機1機を撃墜しています。しかし乱戦の中で被弾し、菅野大尉は大やけどを負って落下傘で脱出。電線にひっかかっているところを、地元民に敵兵と間違えられ竹槍や鎌で追い回され、身に着けていた千人針入りの日の丸の布を見せてようやく誤解が解けたというエピソードが伝わっています。
この日の戦いで米軍側は「日本にまだこれほどの精強部隊が残っていたのか」と驚嘆したといわれています。しかし、この大勝利は日本海軍航空隊にとって最後のものとなりました。菅野大尉率いる戦闘301飛行隊(新選組)は、その活躍が仇となり、西日本全域の防衛に駆り出され、他の隊である407飛行隊(天誅組)、701飛行隊(維新組)との連携が困難となりました。その後も出撃をくりかえし、八面六臂の活躍をしますが、激戦の中で多くの有能なパイロットを失っていきました。
特攻隊については、実はフィリピン・ルソン島で初の特攻隊の編集が行われた際、指揮官は関行雄大尉ではなく、海兵70期で同期の菅野大尉が指名される予定でしたが、運悪く(良く)?飛行機の受領のため日本に帰国中でした。菅野大尉は後にそれを聞き、自ら何度も特攻隊を志願したそうですが、その技量を惜しんだ上層部はこれを認めなかったといわれています。一方で部下の特攻は決して許さず、「部下を出すなら俺が行く」と、その体当たり戦法には批判的であったとも伝わっています。
昭和20年8月1日、戦闘301飛行隊(新選組)は、屋久島北方で九州に向けて北上する敵機の邀撃に出撃。しかし、菅野大尉が乗る紫電改(写真④343-15機ではなく343-01機でした)は機銃弾の筒内爆発を起こしてしいます。
「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」
この無線を聞いた2番機の堀光雄飛行兵曹長が護衛にかけつけると、菅野大尉は拳をつきあげて敵の攻撃に向かうよう指示したといいます。去り際、堀曹長は怒りの形相であった菅野大尉の表情が和らいだのを見たと語っています。
「空戦ヤメ、全機アツマレ」
「諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」
この入電を最後に菅野大尉機は行方不明となりました。米軍の記録によると、当日同戦闘地域で米軍戦闘機P51により、陸軍の疾風4機撃墜とありますが、その日に陸軍の被害は無く、恐らく菅野大尉機を含む紫電改3機が未帰還となっていることから、ほぼ撃墜されたことが確実視されています。
なお、菅野の遺言により、遺品はすべて焼却されていますが、存命中に愛用していた財布は靖国神社の遊就館に展示されています。是非東京にお越しの際はお立ち寄りください。靖国神社は誤解されることが多いですが清々しい氣の流れる聖地です。
余談ですが、343空隊員と親しかった今井琴子夫人によれば、菅野大尉は「俺にカアちゃん(嫁)を見つけてくれよ」「ゆっくり落ち着ける家庭がほしいな」と言っていたことがあるといいます。
当時戦闘機搭乗員は女性からの憧れの的であり、相手はいくらでも見つけられる状況でしたが、菅野大尉には自分がいつ死ぬか分からないので、残す妻を作るわけにもいかないという気持ちもあり葛藤しているようであったようです。因みに写真⑩⑪は2017年7月29日、32年ぶりのギア付きバイクに乗って愛媛~高知700km行脚を行ったときに撮影したものです。現在実物の紫電改の機体は、この愛媛県愛南町の南レク紫電改展示館の機体のみです。
http://www.nanreku.jp/site/ainan/shidenkai-tenjikan.html
343航空隊源田司令は菅野大尉を空戦での戦死として二階級特進を具申し、8月1日の戦死と正式に認定され中佐に昇進しました。総撃墜数は、南方戦線において個人撃墜破30機、343空において個人撃墜18機・協同撃墜24機を記録、計72機撃墜を全軍布告されました。戒名は「隆忠院功誉義剛大居士」。
宮城県角田市の称念寺 (写真⑫)に眠っています。