大東亜戦争から学ぶリーダーシップ⑬

query_builder 2020/06/14
歴史編

 第12回目は、中川 州男(なかがわ くにお写真①②③ 熊本県出身 1898年(明治31年) 1月23日 – 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終 階級は陸軍中将。私の尊敬する仁徳を備えた実践のリーダーです。



 太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリユー(現パラオ共和国)の戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリ リュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵 隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵 隊に多大な損害を与えた武功と島民被害を最小限で留めたことで知られる将軍です。熊本県玉名中学校を 経て、1918年陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第48連隊附となり、台湾歩兵第2連隊附、歩兵第48 連隊大隊副官、第12師団司令部附(福岡県八女工業学校(現・福岡県立八女工業高等学校)配 属将校)、歩兵第48連隊中隊長、歩兵第79連隊大隊長等を歴任。歩兵第79連隊赴任の直後、 1937年の盧溝橋事件の勃発により日中両軍は全面衝突し、ここから日中戦争へと繋がり、日本は泥沼 の世界大戦へと巻き込まれていきました。


 中川少佐(当時)にも動員命令が下され、中川少佐は初の実戦を経験しました。天津から山西省の保 定会戦等での野戦指揮官としての功績(当時関東軍最強との評価がありました。)を認められ、連隊長の 推薦により陸軍大学校専科に入校しました。


 1939年3月に陸大専科を卒業し、同月に陸軍歩兵中佐に進級。1941年4月、戦功により功 四級金鵄勲章を受章とそこそこの軍歴ですが、中川大佐は、一度は1925年加藤内閣の際の軍縮(第 1次世界大戦後の世界的軍縮の影響)の煽りを受けて配属将校となり、キャリアを絶たれかけましたが、その 後の日中戦争の開戦により、実戦で野戦指揮官としての能力を認められる等、エリートとは一線を画す叩き上げ軍人でした。



 1944年9月15日、アメリカ軍がペリリュー島に上陸(写真④~⑦)、日米は熾烈な戦闘を継続(ペ リリューの戦い)しました。同島赴任前、中川大佐は夫人に任地と任務を尋ねられた際、「永劫演習さ」(帰 還を望めない戦場)とだけ答えられたそうです。


 戦力差が歴然とする中(注1)、たたき上げの軍人であり、合理的精神の持ち主であった中川大佐は、全 島を徹底して要塞化、地下陣地化して兵の保全に努め、早く楽になりたくて死に急ぐ兵の玉砕を戒めて、出 来るだけ多くの米兵の出血を強いるという戦術を取り、米上陸軍を苦しめました。米上陸軍の血で染まった場 所はオレンジビーチと呼ばれました。


 中川大佐の取った組織的な戦法・戦術は、後に硫黄島の戦い、沖縄の戦いにおいて参考とされ、米軍に 対し効果的な損害を与えることに成功することとなりました。

(詳細YouTube❶❷)。 ❶https://youtu.be/xeAYjShHJ58、https://youtu.be/BD6fAlOaSvI

 昭和天皇から勇戦する中川部隊へ嘉賞11度、上級部隊司令部から感状3度が与えられました。


 しかし次第に物量に勝る米軍の前に劣勢を強いられ、11月24日にはついに司令部陣地の兵力(わ ずか20発)も殆ど底を突き、司令部は玉砕を決定、中川大佐が拳銃自決した後、玉砕を伝える有名な 「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による 「万歳突撃」が行われました。 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たしました。


 その後も残存兵34名は終戦後2年間も戦い続けた話は有名です。中川大佐は戦死後に2階級特進 し、陸軍中将に任ぜられました。


(注1)

<日本側装備> 兵員10,500名(内3,000名は朝鮮人の基地敷設員) 小銃5,066挺、九六式軽機関銃200挺、九二式重機関銃58挺、九七式中迫撃砲(長) ほか火砲約200門、九五式軽戦車17両 (数字は皇紀2592年(昭和7年)=九二式

<アメリカ軍装備> 兵員48,740名 小銃、自動小銃41,346挺、機関銃1,434挺、拳銃3,399挺、火砲729門、戦車 117両、バズーカ砲180基 戦艦5隻、重巡洋艦5隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦14隻、航空母艦3隻、軽空母5隻、護衛空母 11隻(艦砲射撃と航空機による爆撃)


 これだけの軍備の差で71日間持ちこたえたのです。指揮官の違いで戦の結果もまた違ってくるのです。

 そもそも米軍は、日本側の暗号電報や海軍乙事件

(注2)で入手した機密書類、偵察機からの空撮、 潜水艦で沖合からの海岸撮影などで得た情報を総合的に分析し、日本軍守備隊兵力を10,320~ 10,720名、内戦闘員を陸軍5,300名、海軍800~1,000名と、かなり正確に推定してい ました。 (注2)米軍の空襲によって、海軍司令部のあったトラック島からペリリュー島に移動した海軍司令部が、 更にペリリューまで空襲を受けたため、フィリピンのダバオに2機の大型水上機で退避しましたが、2機とも 熱帯低気圧で墜落、古賀大将は死亡、参謀長の福留少将はフィリピンゲリラに拘束され所有していた軍 事機密文書を奪われた事件

 

 海軍甲事件(山本五十六大将撃墜・戦死)と比較して何と間抜けな事件でしょう。腰抜けの海軍司令 部のトップが慌てて現場を捨てて逃亡して台風に巻き込まれて死亡し、軍事機密を敵に渡してしまったのです。

 その後米軍は情報入手したことを伏せるため、金銭解決をゲリラにさせ、機密文書の入ったカバンをそのまま 福留参謀に返却し、福留参謀は機密を守ったとお咎めなしとなったそうです。兵には捕虜になるくらいなら自決 しろと迫っていた陸海軍の高級参謀たちは、この様(ざま)であったのです。

 因みに福留参謀は戦後も1971年まで生き残っています。情けない話です。

 話を戻します。この推定された日本軍守備隊兵力と自軍の参加兵力との差に、第1海兵師団長のウィリア ム・リュパータス海兵少将は上陸作戦にあたり海兵隊兵士の前で訓示した際、「こんな小さい島(南北9km、 東西3km)の戦闘は2、3日で片付く。諸君に頼みがある、私への土産に日本軍守備隊指揮官のサムラ イ・サーベル(軍刀)を持ち帰ってもらいたい。」と豪語していました。

 リュパータス師団長は第1海兵連隊連隊長ルイス・ブラー大佐にも「今回は君の昇進のためのような作戦だ、 海軍十字章と准将の階級章が同時にもらえるぞ」と楽観的な話をしていましたが、ブラー大佐は上陸前1週 間に渡って入念に地図や偵察写真を確認した結果、日本軍は一年かけて島全体を要塞化しており、師団長 は楽観的すぎると危惧していたそうです。

 それが現実となりました。米軍にとっての被害の大きな戦いは硫黄島の戦いとこのペリリュー島の戦いです。 (写真⑨米海軍のニミッツ提督は東郷平八郎元帥を尊敬する人格者です。)

 特に米軍最強の第1海兵隊師団と関東軍最強といわれた歩兵第2連隊の前哨戦では、日本軍が米軍 に多大な被害を与えています。ベトナムのような陸上戦であったなら、恐らく日本軍は勝利していたことでしょう。 制空権と制海権で決まってしまう島嶼(とうしょ)戦では逃げ場がないだけに、物量で勝る米軍にとって圧倒 的に有利でした。

 因みにこの戦で現地住民の被害が少なかったことは、美談として毎日新聞のコラムなどで掲載されたといわ れています(毎日新聞社から出版された舩坂弘の著作「サクラサクラ」1966年の影響)。  日本は委任統治領であった南洋諸島の住人を大切にしていました。当時ペリリュー島には899人の島民 がいました。戦況が日本軍に不利となった時に、ペリリュー村長から「一緒に戦わせて欲しい」と中川大佐に進 言がありましたが、「誇り高き帝国軍人が貴様ら土人などと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったの かと失意の中、島を離れる船に乗り込みました。

 そして、船が島を離れた瞬間、中川大佐を含め日本兵全員が手を振って浜へ走り出てきました。村長や島 民 は そ の 時 、 中 川 大 佐 が 激 昂 し た の は 自 分 達 を 救 う た め だ っ た と 悟 っ た と い わ れ て い ま す 。


(詳細YouTube❸)。

パラオ共和国が今も親日国家であることの意味がよくわかる話です。 ❸https://www.youtube.com/watch?v=lrmQtwfeQXo

「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕 したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」 “Tourists from every country who visit this island should be told how courag eous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this isl and. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz″(写真⑨)


 平成27年4月8日、天皇皇后両陛下(現上皇陛下)は、パラオ共和国のレメンゲサウ大統領(写 真⑩)の招きに応じて、戦後70年に節目にペリリュー島をご訪問されました(写真⑪~⑬)。(私はこの 陛下の写真で、正しい礼の姿勢を学びました。)


 その際のお言葉に、『先の戦争においては,貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行われ,多 くの人命が失われました。日本軍は貴国民に,安全な場所への疎開を勧める等,貴国民の安全に配慮した と言われておりますが,空襲や食糧難,疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地に おいて,私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し,その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたい と思います。また,私どもは,この機会に,この地域の人々が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後 に慰霊碑や墓地の管理,清掃,遺骨の収集などに尽力されたことに対して心から謝意を表します...。』


 現在中韓朝と左巻きの連中が、日本の戦前の行為を何も知らずに無責任に非難しています。彼らのいう ような欧米型の搾取する植民地支配が実際に行われていたならば、上記のような招待は現地からは決して行 われないでしょう。中川大佐始め日本兵の方々、南洋諸島に移住された民間人の方々の善政や統治があっ たからこそ、今日の日本とパラオを始めとしたアジアとの友好関係が維持されているのでしょう。

 改めて、死を目前にした状況の中で、島民の生命維持を優先し、誰よりも勇敢に戦い、少しでも長期間 敵を留め、祖国を戦禍から救おうと戦っていただいた中川大佐と守備隊の方々に感謝したいと思います。

NEW

  • 負け戦の要因と虚偽報告‼

    query_builder 2021/07/23
  • 大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉗

    query_builder 2021/10/23
  • 大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉖

    query_builder 2021/09/23
  • 大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉕

    query_builder 2021/08/23
  • 大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉔

    query_builder 2021/06/16

CATEGORY

ARCHIVE