大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉔

query_builder 2021/06/16
歴史編

 第24回目は、小川三郎中佐(おがわさぶろう)熊本陸軍幼年学校卒、陸軍士官学校38期卒、熊本県出身です。


 小川三郎中佐は我が国ではほとんど知られておりません。したがって写真といえるものが残っておりません。唯一写真①の黄色で囲ったものが現存しているのみです。

 小川三郎中佐は、青年将校時代の1936年2月26日に勃発したクーデターの2・26事件で連座して、6カ月の停職処分を受け、陸軍内での出世の道は閉ざされていたからです。

 大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、タイのバンコクで岩畔(いわくろ)機関(占領地の政治工作,行政指導,経済謀略などを担当)という特務機関が出来ました。この機関の目的は、当時大東亜共栄圏を拡大し、アジアの独立を謳う東条英機内閣の政策に則り、英国植民地下のインドにおいて、義勇軍をつくってインド独立工作をすることが主な任務でした。ここに小川三郎少佐(当時)が配属されてきました。

 機関長の岩畔豪雄(いわくろたけお)大佐は、小川三郎少佐の人事考課表を見ると「陸士第38期生卒業序列が尻から2番目2・26事件に連座して停職6カ月」という者をどんなポストに使うべきか迷ったそうです。

 そこで配属後の夕食の際に、小川少佐に「君は陸士の卒業序列が尻から二番目だがあまり勉強しなかったんだろう」と聞いたそうです。すると小川少佐は「実に残念でたまりません」と答えたそうです。


 岩畔機関長はてっきり勉強もしてみたが不成績に終わって残念だとの意味に受け取ったのでしたが、小川少佐はこう続けたそうです。

 「私は陸士卒業の時、ぜひビリで卒業したいと努めたが、惜しくも念願がはずれて、尻から2番に止まり実に残念無念でした。ビリでの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」と小川少佐は笑って答え、さすがに剛腹の岩畔機関長も呆気にとられたといわれています。

 大東亜戦争が進んで、インド独立の志士チャンドラ・ボース(写真②③)をドイツから迎えてインド義勇軍の首領とし、小川中佐(中佐に昇進)はその連絡に任じていました。当時、陸の三馬鹿(注1)といわれた牟田口廉也中将(写真④)が指揮を執った対英独立戦争・インパール作戦(実際は補給を軽視した無理な進軍によって数万人が餓死:退路は白骨街道といわれた)後のビルマの日本軍は戦勢に利あらず、後退に後退を重ねていました。

 (注1)戦後アメリカで「陸の三馬鹿」と言われた有名な3名の陸軍幹部、寺内寿一大将⑤、牟田口廉也中将④、富永恭次中将⑥ のこと。特にイギリスでは、「日本兵を大量に見殺しにしてくれたので勲章を与える」 とのブラックジョークまで出る程、軽蔑されています。このような人物の写真は何枚も残っていますが、小川三郎中佐の写真も経歴詳細も不明であることが残念です。




 6,000名のインド義勇軍兵士(写真⑦)が半減する中、サルウィン河畔に踏み留まっていたチャンドラ・ボースに対し小川中佐は「早く後方の国境山脈まで退られよ」と言いました。するとボースは、「約100名のインド義勇軍の婦人部隊(写真⑧)をラングーン(現ヤンゴン)に残していながら男の自分だけがどうして後退できるか」と言い返したそうです。


 小川中佐は、「分かった、私も日本人だ。日本帝国軍人だ。誓って私が責任を以てインド義勇軍婦人部隊を救出し、貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ。」と言うなり方面軍の後方担当の参謀に「最小限4台のトラックを融通してくれ」と頼みこみましたが、参謀は「1台もない」と断りました。 そこを何とか工面してくれと迫りましたが、「無い袖は振れぬ」と言い返してきます。小川中佐は厳然として、


 「無い袖を振るのが参謀の真の役割だ。有る袖を振るのなら誰にでもできる。自分はインドのボース首領に誓ったのだ。ラングーンに残された婦人部隊は日本人の面目にかけても断じて救出すると。 今度の大戦はあるいは敗戦の破局を迎えるかもしれぬが、たとえどんなどん底に陥っても日本人は『嘘』をつかなかった。

 どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼できるとのイメージをインドの人たちに残して死にたい。『形』の上の戦争ではたとえ敗れても『心』の上の戦争では敗れておらぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。4台のトラックはこのため何とかしてくれ。」




と熱情をこめて言い放ったのです。 

 黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何も言わず、どこからか4台のトラックを工面してきました。小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲の首都に駆けつけて無事にインド義勇軍婦人部隊の約80名(20名は戦死)を救出し、ボース首領の手元に連れてきました。

 退却の戦闘で最も困難とされるのは「殿(しんがり)部隊」です。勝ちに乗じて敵軍は追撃してきます。その困難な「しんがり」を自ら買って出たのが小川中佐でした。

 退却するインド義勇軍たちを安全地帯まで後退させるため、悪戦苦闘しながらも、もうこれで大丈夫と思われる地点までたどり着いた時、小川中佐は突然、今来た方向に逆行して群がるイギリス軍に突入して行きました。するとマンダレーから南下した英軍機械化部隊の砲撃を受けて、小川三郎中佐は戦死しました。

昭和20年4月25日のことです。


 インド義勇軍のキアニー将軍は後にこう語っています。

 「私は日本人を尊敬している。日本人は他の民族と較べてはるかに誠実で信頼できる。この誠実さはインド人の中に伝わっている。大切なことは戦争に勝つとか敗けるとかではない。敗けても裏切らない誠実さだ。インド義勇軍の将兵は小川三郎中佐を、血を分けた兄のように親しく思い、時には徳の高い老僧のように尊敬している。一生忘れない。」(写真⑨)と、涙を流して語っていたといいます。(ASEANセンター 中島慎三郎氏)

⑨(アジアで唯一、地元民が建てた慰霊碑)


 小川中佐と2・26事件に連座した大蔵栄一氏は著書『2・26事件への挽歌』でこのように書いています。

「私達の同窓にこんな誇り高い男がいたと言うだけでも肩身の広い感じがする。たとえ日本の陸軍が滅びても、また熊本幼年学校はなくなっても、こんな物語だけは後の世にぜひ残しておきたいものである。日本の中にこんな考えの男がいたことを永久に残したいものである。」


 大東亜戦争:これが正しい呼称であると私は考えます。インドネシアでもマレーシアでもビルマ(現ミャンマー)でも、そしてインドでも。目的には様々な思惑があったことは否めません。しかし<アジアの解放>という崇高な目的のために、我が国の先祖の方々は命を懸けて戦ってくださったのです。その結果、植民地支配がこの世から無くなり、戦前は50カ国程度の独立国が、現時点で196カ国にまで増加しました。

 特にアジア・アフリカの植民地からの独立が圧倒的多数ですが、これは先の世界大戦直後に広まったものです。日本が果たした役割がどれほどのものであったか、想像に難くありません。『心』の上での戦争には負けなかった、ご先祖様に感謝です。

 戦後のGHQによる支配で、我々日本国民は洗脳され、マスコミを握られ、軍部の暴走で無謀な戦争に駆り立てられた、だから戦争は悪だ、軍は持たない方が良い。

 果たしてそうでしょうか。人類の歴史は戦争の歴史です。それを否定することは誰にもできません。全ての歴史を否定することになるからです。あの時代に、仮に日本が軍隊を持たず「平和」に徹していたら、世界平和は保たれたのでしょうか。今頃まだ勤勉で生産性の高い民族として白人に優遇されながら、未だ植民地として扱われていたことでしょう。


 今我が国をはじめ世界で拡大する新型コロナウイルスの蔓延も、私の中では未来型の戦争の一形態であるとの認識をしています。何故か大騒ぎであった中国と米国(注2)の経済は一早く回復し、成長段階に入ってきています。誰が新型コロナウイルスを蒔いたのかは別にして、強いリーダーのいない国、危機管理能力のない国は滅びるのではないかと考えます。対策が後手に回り、経済が回らなくなって国力が衰退していくことにならぬよう、国民一人一人が、エゴを捨て、正義を愛する強い心で立ち向かっていく勇気を持ち続けたいですね。


(注2)2019年10月18日にジョンズ・ホプキンス健康安全保障センター、WEF(世界経済フォーラム)、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団がニューヨークでイベント201を開催したもの。ここで新型コロナウイルスの世界流行=パンデミックのシミュレーションが行われていた。  

https://bit.ly/2WiMpHh

(何故か先日、イベント201の主催者のビルゲイツとメリンダ夫人は離婚に至りましたが、私は裏があると思っています。)

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