大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉖

query_builder 2021/09/23
歴史編

 第26回は、岩本徹三中尉(いわもとてつぞう:1916年6月14日 – 1955年5月20日(写真①②④)です。支那事変、太平洋戦争における日本軍最高の撃墜王。(最終階級は海軍中尉)。樺太の国境近くで警察官の父親の元に三男一女の三男として生まれました。「家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(予科練習生予定者)を受験して合格、航空科を選択しました。



②後列左端


③光人社NF文庫「零戦撃墜王」



⑤岩本中尉のノート


 海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」と両親に告げたそうです。

 日本海軍において「最強の戦闘機パイロット」と呼ばれ、かの「大空のサムライ」といわれた坂井三郎元中尉(64機撃墜)が、最も傑出した零戦(写真⑦)搭乗員として挙げた人物が岩本徹三中尉です。昭和13年(1938年)の日中戦争から昭和20年(1945年)終戦までの8 年間を、第一線で戦い抜いたエースといえば、岩本徹三中尉以外には存在 しません。(エースとは、一般に敵機を5機以上、落としたパイロットに与えられる称号)。

 岩本徹三中尉は撃墜数202機(写真⑤)を誇る、日本最高の撃墜王として知られています。全撃墜記録のうち、敵戦闘機だけで100機以上撃墜しています。世界一の撃墜王はドイツ空軍のハルトマン大佐の352機が有名ですが、この記録は東部戦線のソビエト軍相手の記録です。当時のソビエト空軍は品質が劣り、西部戦線の英米軍とは比較にならない低レベルでした。岩本徹三中尉はその米英相手に202機のスコアをたたき出しました。そのレベルの高さは推して知るべしです。

 2013年公開の映画「永遠のゼロ(写真⑥)」のモデルの一人で、特に特攻隊志願を拒否し、「我々戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く落とすのが任務じゃないか。一回きりの命中で死んでたまるか!」と啖呵を切ったといわれます。あの時代に、上官にこれだけのことを言ってのける男がいたことが驚きです。そこにあったのはまぎれもなく、戦闘機乗りとしての揺るがない誇りでした。一機でも多くの敵機を落とすことが国への奉公であるとの考えを上層部にぶつけ、あの理不尽がまかり通った時代に、自己の主張を容認させた、戦闘機乗りのプロ中のプロの人物でした。


⑥東宝映画「永遠の0」



⑧歴史街道2009年8月号(PHP出版)


 私は岩本徹三中尉を、当時の日本の搭乗員の中で最も尊敬しております。その卓越した状況判断力敢闘精神リーダーシップ強運意志の強さ、等々。。。当時は多くの海軍兵学校出身の指揮官の下で、 経験不足から多くの部下を死なせておりましたが、岩本中尉が空中指揮官の時には、味方の損害は僅かしかなく、彼の列機であった部下は生き残って戦い続けました。これによって有名なラバウル航空隊の伝説が生まれることになったのです(URL⑨写真⑩)。


 彼の残した「零戦撃墜王(写真③)」は私の一番のバイブルです。3冊購入、うち2冊は文庫本で、出張の際には常に携行しておりました。400P弱のものですが、100回以上繰り返し読み続け、ボロボロになっています。何回読み返しても新鮮で、何よりも痛快な記録です。特に咄嗟の判断が求められるコンサルティングにおいて、命懸けの戦闘における岩本徹三中尉の判断と行動は非常に役に立ちました。


 岩本徹三中尉は、日華事変の際、初陣で4機、トータルで14機を撃墜し、海軍のトップエースに輝き、その後空母・瑞鶴の制空隊で真珠湾攻撃に参加、珊瑚海海戦を経て、千歳航空隊で千島列島の防衛につき、最前線のソロモン方面・ラバウル航空隊にて4カ月の間に敵機を142機撃墜(三号爆弾による大量撃墜を含むと+52機)で、海軍の至宝と称賛されました。(写真④⑧⑭)

 日本海軍の航空隊は当時無線機の性能が悪く、欧米軍機が常に無線を駆使して数機で編隊を組んで、優れたパイロットが搭乗する日本機を共同で攻撃してくるのに対して、日本海軍は、ほぼ手信号での意思疎通しか出来ない状態を、終戦間近まで改善できませんでした。

 「制空権なきところに制海権無し」といわれたこの時代に、最も大切にすべき戦闘機搭乗員を使い捨てにして、その多くを戦死させた、前近代的思想の海軍首脳の硬直した思想を、非常に残念に思います。

 南方戦線では、実態として僅か300機ほどの各基地の零戦部隊が、今日はニューギニア、明日はソロモン・フィリピン海域、と戦域を広め、連日の戦闘で疲労困憊した搭乗員が、注意散漫となったところを撃墜されていきました。そしてその300機の零戦部隊を、米軍は2000機の零戦が配備されていると本気で考えており、同エリアに何千機もの戦闘機や爆撃機を配置し、連日連夜、数百機の編隊で来襲し、零戦部隊の壊滅を期して攻撃を仕掛けてきていたのです。


⑩敬礼している人物が岩本中尉


 最前線の激戦地であるニューブリテン島・ラバウルでは、実際稼働する零戦は僅か30~50機にも拘らず、米豪軍は「日本軍は1000機以上の戦闘機で邀撃(ようげき)してくるので大至急戦闘機とパイロットを送れ」と、本国に再三に渡って要請していたようです。

 岩本徹三中尉が、南方の最前線の地・ラバウル(写真⑪⑫)に現われるのは、昭和18年(1943年)11月、28歳の時です。オーストラリアの北、ニューギニアの東に位置するニューブリテン島ラバウルを太平洋戦争中、連合軍パイロットは「龍の顎(ドラゴン・ジョーズ)(写真⑪⑫)」と呼んで怖れました。


 それは地形が龍の顎に似ているだけでなく、その基地から飛び立つ零戦隊の精鋭が待ち構えていたからです。それこそが日本海軍が誇る最強部隊「ラバウル航空隊」でした。

https://www.youtube.com/watch?v=vqz1qNhcEUY

 (日本ニュース 第194号 1994年(昭和19年)2月16日)

その空戦技術と撃墜数は陸軍航空隊の比ではなく、岩本中尉のような空中指揮官の存在と、零戦の攻撃力(20mm機関砲2門)、7.7mm機銃2門)が突出していたからといわれています。

 とはいえ当時、物量で勝る米軍は連日、数百機単位の編隊で来襲し、迎え撃つ岩本中尉たちは、既に誕生から4年経過で旧式化し、敵機より性能で劣る零戦30機程度で邀撃していました。人員の交代はもちろん、機材の補給も滞りがちな、まさに危機的状況だったのです。ラバウルからは死ななければ日本に帰れないといわれていました。

 しかし、そうした中で岩本中尉をはじめとする零戦搭乗員たちを支えたのは、空に散っていった戦友たちが遺した「敵機は必ず、俺たちが落とす」というラバウル魂だったといいます。そして岩本中尉も心身をすり減らしながら獅子奮迅の戦いを続け、機体に描く敵機撃墜の桜マークで、岩本機の胴体後部はピンクに染まりました。(写真⑬) 岩本中尉の戦法は、当時としては珍しく、少ない戦力の消耗を避けるため、編隊による優位優速の状態からの一撃離脱戦法(ドイツ空軍が得意とする戦法)を多用していました。性能で劣る零戦の有効活用法となり、米軍を恐怖に陥れました。1943年末、日本は4機編隊構成を採用していましたが、岩本中尉は機上無線機のモールス電信(通常の無線は雑音が酷く、使用不可。原始的ですが止むを得ない手法)を活用して列機の部下との連携を心がけ、基地司令部との交信で来襲情報を受信し、迎撃隊を有利な位置に導いて戦闘指揮を行いました。


⑬岩本中尉仕様のプラモデル


 また格闘戦にも絶対的な自信を持っていました。後日の昭和20年2月の千葉県木更津上空での空中戦では、岩本中尉単機対グラマンF6F戦闘機4機で空中戦に入り、そのことごとくを撃墜したことが、地上監視所から報告されています。この頃の岩本中尉は、「5倍や10倍の敵など恐くはない。ただし、エンジントラブルだけはどうしようもない。」と戦場で活躍する零戦の現実を記しています。

 岩本中尉は、空中戦では常に一番に敵を発見していましたが、視力検査をすると彼の視力1.0くらいで、2.0が当たり前の日本海軍搭乗員としては、決して良い方ではなかったようです。敵機の索敵方法について後輩から教えを請われると、「敵機は目でみるんじゃありゃんせん、感じるもんです。」と言いつつ、戦場の経験から敵編隊群の進攻方向を想定し、プロペラが太陽の光を反射する輝きを察知してゆく彼独自の索敵方法を教えていきました。(まるで映画「燃えよドラゴン」のブルースリーのセリフ「Don’t think. FEEL!」のようで、武人としての達人の域に達していることを感じます。) また、会敵までの敵距離の予測を、米軍機の機上電話(短波無線)を傍受しその強弱によって、敵との遠近を推測する彼独自の電子戦を実施していました。 岩本徹三中尉は、与えられた環境下で、常に最善を尽くし、決して諦めない<不屈の精神>の持ち主でした。

 大酒飲みで、酔ってトラブルを散々起こし、上官をぶん殴るなどしばしばでしたが、決して理に適わないことで部下を叱ることの無い、平素は穏やかな人物でした。ただ一旦戦闘に入ると、鬼神の働きをする、実に頼もしい搭乗員でした。

 岩本徹三中尉は、「媚(こ)びず、諂(へつら)わず、とらわれず。」という武士道的な言葉を常々自身に言い聞かせていました。自分のライフジャケットには「天下の浪人・零戦虎徹(注1)」の文字を入れ、部下であった堀建二2等飛行兵曹は、岩本中尉から「どんな場合でも、実戦で墜されるのは不注意による。まず第一は見張りだ。真剣に見張りをやって最初にこちらから敵を発見する。そして、その敵がかかってきたら、機銃弾の軸線を外す。そうすれば墜されることはまずない。地上砲火による場合。これは、どうにもならん。避けようがないからな。その場合は潔くあきらめるさ!」と指導を受けたといいます。

 (注1)幕末の新撰組局長・近藤勇の愛刀で有名。刀工:長曽祢虎徹の打った刀剣の呼称 切れ味の鋭さで有名。 戦後、戦中の活躍が仇となり、公職追放令の影響で職を転々としていましたが、1952年、GHQ統治支配が終わり益田大和紡績会社に職を得てようやく落ち着きました。1953年(昭和28年)、盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術すること3回、さらに入院中に戦傷を受けた背中が痛みだし4,5回の手術を行い、麻酔をかけずに脇の下を30cmくらい切開して肋骨を2本取り出しました。最後は敗血症により、病名も不明のまま1955年(昭和30年)5月12日、7歳と5歳(航空自衛隊勤務)の男の子を残して逝去されました。享年38。病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていたそうです。 墓は島根県益田市にあるようですが、その場所は不明のままです。飛行時間8000時間超、離着陸回数13400回、これも岩本中尉の記録です。写真⑮は岩本徹三元中尉の病床における、生前最後の写真といわれております。昭和30年、病院の一室で遺稿となったノートの執筆に励む姿です。このノートを書き上げるや、亡き戦友の待つ大空に還っていったと伝えられております。 204空時代の司令柴田武雄元大佐は、岩本徹三元中尉の葬式で、「岩本は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男でした」と最大の賛辞を送られました。



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