大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉗

query_builder 2021/10/23
歴史編

 第27回は、本間雅晴(ほんま まさはる(写真①~③)1887年(明治20年)11月27日 – 1946年(昭和21年)4月3日)中将です。 日本の陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。陸士19期次席、陸大27期恩賜(成績優秀者) 新潟県佐渡市畑野出身。 太平洋戦争(大東亜戦争)初期においてフィリピン攻略戦を指揮しました。英国通の人道主義者であったことは米軍にも知られているものの、戦後は「バターン死の行進(写真④)」における部下の行為の責任を問われて銃殺刑に処されました。






 本間雅晴中将はもともとイギリス通で、米英との戦争には反対であったといわれています。第14軍司令官としてフィリピンマニラで指揮を執る際、当時アジアで最高の軍備を誇る極東アメリカ陸軍(マッカーサー(大将)司令官)を相手に一進一退を繰り返す本間中将に対し、攻略後の軍政が上手くいっていたシンガポールと比較して、フィリピン方面攻略に批判的であった杉山参謀総長は、本間司令官に対し、援軍無しに直ちに米軍を攻略するよう求めました。

 本間司令官は、1942年4月3日から侵攻を開始し、敵将マッカーサーを追い詰め、豪州に落ち延びさせルソン島の極東アメリカ陸軍を降伏させることに成功しました。

 ところが、予想をはるかに超える米軍とフィリピン軍捕虜が6万人を超え(総数7万6千人)、しかもその多くがマラリアに侵されて健康障害を持っていました。全捕虜がトラックで輸送されるはずでしたが、トラックの大部分が敵軍との応戦によって修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に充てねばならず、捕虜を砲撃から守るために、結局マリベレスからサンフェルナンドの区間83km(写真④)を、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で3日間行進することになりました。この区間の行軍が、米軍から『死の行進』または『バターン死の行進』と呼ばれました。

 マッカーサー大将はプライドが高く、敗軍の将となったことに深く傷つき、本国でことさらにコレヒドール(バターン)の行軍を、非人道的と宣伝することによって、自らが部下を置き去りにして逃げ帰ってきた不名誉な負い目を拭いました。

 ところが現実は、米軍がギリギリまで降伏しなかったことと、フィリピン人3万人超の民間人を抱え、既に食料が枯渇しいていたことが一番の原因でした。捕虜を戦場にそのまま放置できず、かといって食料と医療の整った後方基地がサンフェルナンドでした。日本軍の兵卒も重い背嚢を背負い、重さ4kgの三八式歩兵銃(写真⑤)を持ちながらの地獄の行軍となりました。

 「バターン死の行進」について、第一四一連隊長・今井武夫大佐は次の様に回想しています。「私たちは米比軍捕虜約六万人と前後しながら、同じ道を北方に進んだのです。



 捕虜は日本軍兵士に引率され、飯盒と炊事用具だけをぶら下げた軽装で、えんえんと続いていました。 疲れれば道端に横たわり、争って木陰と水を求め、勝手に炊事を始めるなど、規律もなかったのです。のんきといえばのんきでした」

「それを横目で見ながら進んできる我々日本軍は、背嚢を背負い、小銃を肩にした二十キロの完全装備で、隊伍を整えての行軍でした。正直いって捕虜の自由な行動がうらやましかった位です」戦後、米軍から、これが“バターン死の行進”と聞かされ、初めは、米軍は他方面の行軍と間違えているのではないかと考えたほどで、この時の行軍を指したものだとは、思ってもみなかったのです。 本間中将は、バターン半島の陥落後、1942年8月に参謀本部附となり、内地へ戻ります。「日本ニュース」第115号にて「本間将軍帰還」の肉声・映像が残っています。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300500_00000&seg_number=002


 杉山参謀総長に睨まれ、同月、予備役に編入されました。以後は軍務に就くことなく、フィリピン協会理事長を務めて終戦を迎えました。


 予備役編入の理由は、バターン攻略の不手際をとがめられたものとされています。本間中将は、人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人道行為は、本間中将の責任ではなく、直属の部下の責任でした。しかし、結果的に責任をとることとなり、有罪判決が下り、本間中将は死刑と決まりました。この訴状はこの裁判のために戦後に作られた事後法(法律上、後で作った法律で以前の罪は問えない)の「指揮者責任」でした。有罪判決が下ると本間中将の弁護団はアメリカ連邦最高裁判所に人身保護令を求めましたが、6対2の判決で再審が却下されました。

 処刑は、1946年(昭和21年)4月3日0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間中将の口より総攻撃の命令が下された同じ月日(神武天皇祭の日)、同じ時刻にあわせて執行されました。 A級戦犯の死刑執行日を平成上皇の誕生日の昭和23年12月23日に執行するなど、アングロ・サクソンの執念深さは異常です。 辞世の句は次のとおりです。


「戦友眠る バターンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよ志」

「甦る 皇御國の祭壇に 生贄として命捧げむ」

「栄ゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」

「予てより 捧げし命いまここに 死所を得たりと微笑みてゆく」

「恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思い定めぬ」


1945年(昭和20年)12月19日審理開始、1946年2月11日(紀元節の日)判決、同年4月3日銃殺という早さで処刑されたのは、この裁判がコレヒドールで屈辱的な敗北をした、心の狭いマッカーサーの本間中将への復讐劇であったと言われています。


<本間雅晴中将:年表>



 本間中将はエリート軍人の典型で、将官になるまで現場指揮官に就くことは殆ど有りませんでした。 非常に温厚な性格であり、陸軍きっての英語堪能者といわれていました。また詩歌も奏で、『朝日に匂ふ桜花』『台湾軍の歌』などといった多くの軍歌の作詞も手かげています。今村均陸軍大将(本コラム令和元年9月号:

https://www.brain-supply.co.jp/wp-content/uploads/2019/09/201909bs-tsushin.pdf

とは同期であり、陸士入学試験は隣の席で受験したのをはじめ、駐英武官時など長年の付き合いがあり、親友として深く交流を交わしていました。

 身長は180cm強で堂々たる体躯を持ち、美男子の本間中将は、秩父宮殿下附(皇族附武官)当時、上流階級のサロンではよく噂になりました。秩父宮殿下が奔放な人柄だったために、その行動に周囲から煩い声が聞こえている折であり、本間中将も口では「困ります」と言いながらテニスの相手をしたりと気を使っていたそうです。





  予備役編入後、比島攻略戦の敵将であるマッカーサーを「文武両道の名将だね。文というのは文治の面もなかなかの政治家だ。この名将と戦ったのは僕の名誉だし、欣快だ」と評したそうですが、皮肉にも、本間中将はその「文武両道の名将」と評したマッカーサー将軍の恨みを買い、フィリピンで処刑されることになってしまいました。

愛妻家であった本間中将の二度目の妻となった富士子夫人(写真⑥~⑧)は、戦犯裁判に証人として出廷した際に、 「私は今なお本間の妻たることを誇りにしています。私は夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。私が本間に関して証言することは、ただそれだけです・・・・・。」と陳述、その毅然とした姿に本人はもちろん、裁判官や検事も感動の涙を流したそうです。

 実は本間中将は、捕虜虐待の訴追の可能性について、卑怯にも「バターン死の行進」が自分たちに類を及ぼさないよう、帝国陸軍の首脳たちによって全ての責任を被せる工作をされました。無条件降伏から、陸軍が機能停止する、わずかな時間に、本間中将の軍籍は不当にも剥奪されてしまったのです。

 実際に、本間中将のもとに執行者が出向き、本間中将が着用していた軍服から、勲章と階級章をむしり取り、官位叙勲の取り消しを宣告したというから、ふざけた話です。 中将であった彼は、天皇陛下に親任されて、その職にあったわけです。これは「天皇陛下がご承知のことなのか」と本間中将は厳しく問いました。  

 全軍特攻を命じながら、自分自身は敵前逃亡した陸軍第四航空軍司令官の富永恭次中将(陸の3馬鹿の一人)ですらそのような処分は受けていません。

 本間元陸軍中将は、軍人ではなくなってしまったので、平服で法廷に臨み絞首刑を宣告されました。 本間中将は、連合国のマッカーサーにとっても、フィリピンから自分を追い落とした仇敵です「なにがなんでも処刑してやろう」そういう思いがあったはずです。 しかし、裁判の過程を通じて、本間中将に「武士の情けを与えずにおけない」動機が生じたようです。本間雅晴・元中将に、刑の一等を減じて軍人に与えられる処刑の名誉「銃殺刑」を執行しているのです。日本軍から奪われた軍服を、連合軍によって再び与えられ、本間雅晴元中将は、帝国軍人として処刑されました。

 一方、連合軍はA級(平和に対する罪:事後法)戦犯の軍人に対して、「単なる残虐狂気の犯罪者」として断罪しました。銃殺刑ではなく、一般犯罪者と同じ絞首刑を執行しているのは周知の事実です。陸軍大将だった東条英機・元首相に対しても、平服で処刑し、遺体を公開しています。

 当時、ほとんどの将校が囚人服で絞首刑に処せられたのに対し、本間中将の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑でした(同じくマニラの軍事裁判で死刑判決が下された山下奉文(ともゆき:令和2年4月号https:

//www.brain-supply.co.jp/wp-content/uploads/2020/04/2020apr.pdf

中将の場合は、囚人服を着せられたままの絞首刑でした)。現在の私(岡)と同じ58歳での刑死でした。戦後復興にその持てる能力を発揮すべき有能な人材を、連合軍の復讐による不当裁判で処刑されたことは如何にも残念なことでした。

合掌!

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