大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉚

query_builder 2022/02/10
歴史編

第30回は、西 竹一(にし たけいち、1902年〈明治35年〉7月12日 – 1945年〈昭和20年〉3月22日:写真①②③)、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐の愛称(通称)はバロン西(Baron Nishi、バロンは男爵の意)です。

1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。西大佐が獲得した金メダルは、2021年現在、夏季オリンピックの馬術競技で日本が獲得した唯一のオリンピックメダルです。今でも日本の馬術関係者が「忘れられない最大の英雄」とたたえています。  西大佐を有名にしたのはオリンピックの優勝インタビューの際に、「We Won.」と発言した言葉です。多くの日系人たちは我々日本人が勝利したとの解釈をしたようで大喜びだったようですが、実は「私とウラヌス号」という意味であり、個人主義の欧米人にとって、自分と同等の位置に愛馬持ってきたその謙虚な姿勢を的確に捉えて称賛したのでした。

西竹一大佐に対する私の評価は、戦前の軍部が台頭し、厳しい統制が常態化した昭和時代、国際感覚を失いつつあった我が国において、破格のスケールの大きさと一流の国際感覚を身につけた“時代を超越した英雄”のイメージでした。

西竹一大佐は、男爵・西徳二郎の三男として東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布、住居は麻布桜田町付近)にて生まれました。学習院幼稚園を経て、学習院初等科時代は近隣の番町小の生徒と喧嘩を繰り返す、暴れん坊でした。1912年(明治45年)には父徳二郎が死去し、兄の早逝により同年3月30日、その跡を継ぎ当主として男爵となりました。当時父から引き継いだ遺産は2500万円、現在の貨幣価値に換算して1,200億円もの莫大な金額です。父徳二郎は清の西太后から清茶の販売権を譲り受け、莫大な資産を築きました。

陸軍士官学校では本格的に馬術に取組み、22歳で陸軍騎兵将校になり、その技術は磨かれました。少年時代より興味を持ったものにはとことんのめり込んでいく性格は、長じても失われることは無く、それが馬術への情熱へと注がれました。西大佐は特に荒馬を根気よく調教して自在に乗りこなしていくことをこよなく愛したそうです(写真④)。 

1930年(昭和5年)、27歳の時に、候補選手にえらばれたロサンゼルスオリンピックのために半年間の休養を取り、良いパートナーとして欧州生まれの名馬を手に入れるため、自費で莫大な費用をかけて欧州に向かいます。

その前にオリンピック会場であるアメリカ合衆国に向かいます。この際に客船の船内で当時の銀幕の世界的スターのダグラス・フェアバンクス(写真⑤⑥)とメアリー・ピックフォード(写真⑦)夫妻と親交を持ちました。また、当時のアメリカの映画スター、喜劇王のチャーリー・チャップリン(写真⑧)や2度のアカデミー賞主演男優賞受賞者で日本では「老人と海」の主演で有名なスペンサー・トレイシー(写真⑨)らとの交友も話題となりました。

同年3月に西大佐はイタリアにて、後に終生の友とも言うべき存在となる愛馬ウラヌス(ウラヌス号:写真①②③⑩)との運命的な出会いを果たします。体高181cmのウラヌス号は戦国武将の前田慶次の愛馬「松風」(漫画:「北斗の拳」のラオウの愛馬「黒王」)のような存在でした。因みにこのウラヌス号は、西大佐以外は誰も乗りこなせなかったそうです。

このウラヌス号を駆って、格式高く、強豪揃いのイタリア、フランス、スイス、ドイツとの各地の競技会に参加し、入賞を重ね、武者修行の旅を続けたのです。<抜群の決断力と実行力>、これに<破格の財力>を持ち合わせていた西大佐(当時:中尉)でなければ出来ない思い切った行動でした。当時の日本のスポーツ界で、これだけのスケールと行動力、抜群の国際感覚を持った人物は殆どいなかったといわれています。

名馬ウラヌス号を伴って帰国し、翌年の予選会で代表の座を射止めました。

1932年(昭和7年)、習志野騎兵第16連隊附陸軍騎兵中尉時代、騎兵監などを歴任した大島又彦陸軍中将を団長に、城戸俊三陸軍騎兵少佐ら帝国陸軍の出場選手一同(写真⑪)と参加したロサンゼルスオリンピックでは、西大佐(当時:中尉)はあざやかな手綱さばきでウラヌス号を駆って当時五輪の華といわれた馬術大障害飛越競技にて優勝し、日本初の馬術における金メダリストとなりました。

この活躍とその出自(男爵:貴族)や性格から、西大佐は「バロン西」と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる社交界で、また当時人種差別感情がもとで、アメリカで排斥されていた在米日本人や日系アメリカ人、欧州の各国、メキシコ人から人気を集め、後にロサンゼルス市の名誉市民(写真⑬)にもなっています。また現地で行われた金メダル受賞パーティーでは2年前の船上で親交のあった米俳優ダグラス・フェアバンクス(写真⑤⑦)と再会し、友情を温めるとともに金メダル獲得を祝福されたそうです。

西大佐を知る人は、彼を評して、性格は至って鷹揚、天真爛漫でサッパリし、明るい快男児であったと証言しています。

西大佐は当時からスマートな美男子として有名であり、身長も当時の日本人としては高身長である175cm、体重70kg、当時は殆どの軍人が丸刈りの中、髪は海軍風の七三に分け(写真⑪左端⑫)、他の青年将校と同じく軍服は昭和の青年将校文化の影響を受けた派手なものを着用していました。趣味は乗馬のみならず射撃やカメラ、バイク(ハーレーダビッドソン)、自動車(クライスラーの高級輸入車)、特にオープンカーを愛し、ロサンゼルス滞在中はゴールドのパッカードコンバーチブルを現地調達して乗り回していたといわれています。  

士官学校予科の頃の有名なエピソードとして、当時としては珍しい、自動車を購入した西大佐は、麻布・赤坂界隈を猛スピードで走り回り、警察が「西を捕まえろ」と動いたそうです、ところが大金持ちの西大佐が、麻布警察署に職員宿舎を寄付すると、その管内では黙認されるようになったそうです。

西大佐は、帝国陸軍将校として騎兵畑を歩んでいましたが、時代の趨勢によって、後に戦車兵に転科し、破天荒な振る舞いが、狭量な日本陸軍に疎まれてか、大東亜戦争末期の昭和19年に、ほぼ戦死が確実な小笠原諸島・硫黄島に配属されました。  

大東亜戦争末期の1945年2月19日から3月26日に行われた硫黄島の戦いとは、日本軍守備平2万1000名に対し、米軍海兵隊6万1000名の兵力差で行われた戦いです。前年サイパン島を占領した米軍は航続距離5600kmの大型爆撃機B29を使用し、日本本土爆撃を実施しましたが、戦闘機の護衛が無く被害が大きかったことから、日本本土から1000kmの硫黄島に目を付けました。ここからであれば航続距離2660kmの米最強戦闘機P51ムスタングを飛ばして護衛できること、B29爆撃機の不時着場(実際に2200機以上不時着)になること等、戦略的価値が高かったからです。実際硫黄島が陥落して後、太平洋における日本軍の組織的抵抗は、ほぼ無くなりました。

この戦いの詳細は米映画「硫黄島からの手紙(クリント・イーストウッド監督(写真⑯)」が詳しいので、是非ご視聴ください。

西竹一中佐(当時)は米軍が上陸して1ケ月後の昭和20年3月22日、戦車第26連隊長(写真⑭)として戦死しました(遺骨は未発見)。映画「硫黄島からの手紙」で伊原剛志(写真⑮)が、西竹一中佐(当時)の役を演じていました。同じ騎兵出身の司令官栗林忠道中将役の渡辺謙に対して、以下の会話が印象に残っています。  

 西中佐:「正直に申し上げてもよろしいですか、閣下。最も賢明な処置は、この島を海の底に沈めてしまうことだと思います」

 栗林中将:「それでも君はここへ来た!」

 西中佐:「ええ。私の戦車でもいる時が来るかなと思いましたので、できるだけ担ついで来ました」  

米軍上陸部隊は、硫黄島に米国で親しまれた有名な「バロン西」が配属されていることを暗号の解読などで知っていました。3月に入り日本軍の組織的な反攻が潰えた後、米軍側では、ロサンゼルス五輪の英雄であった西を知る者も多かったため、「バロン西、我々はあなたを失いたくない。出てきなさい」と日本語で幾度となく西中佐に投降を呼びかけましたが、西中佐はこれらを全て無視しました。戦死当時・満42歳。どのような最期であったかは諸説あり定かではありませんが、現在、硫黄島の東海岸に、西中佐(当時)戦死の碑が残されています(写真⑰)。


硫黄島の戦いでの戦死により陸軍大佐に進級。墓所は青山霊園(写真⑱)。当主の死により長男の西泰徳氏(写真⑲右端:元・硫黄島協会副会長)が男爵を襲爵しました。西大佐の後を追うかの如く、戦死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌス号も死亡しています。西大佐が死ぬまで離さなかったウラヌス号の鬣(たてがみ)が、1990年(平成2年)にアメリカにおいて発見され、現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められています。

西大佐がロサンゼルスオリンピックで獲得した金メダルは、ウラヌス号の蹄鉄などと共に「優勝額」の形で秩父宮記念スポーツ博物館が所蔵(写真⑳)しています。

西大佐が愛用していた乗馬鞭が、1964年に西大佐の未亡人(写真⑲)からアメリカの団体に譲渡され、当該団体の後身「LA84ファンデーション」(スポーツ振興団体)が2021年まで所蔵していました。2020年東京オリンピックの開催を機会に、2021年7月末に西大佐の曽孫(東京在住)に返還されました。

西大佐の旧知の映画人で、硫黄島戦の時期にはアメリカ軍の情報将校として、グアム島の第315爆撃航空団に赴任していたサイ・バートレット陸軍大佐は、1965年(昭和40年)に来日して東京に西大佐の未亡人(写真⑲)を訪ね、靖国神社において西大佐の慰霊祭を挙行したそうです。

スケールの大きさ、天真爛漫な性格の生前の西大佐は、常々「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と語っていたそうです。 合掌!!


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