大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉛

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歴史編

第31回は、板倉光馬(いたくらみつま、1912年(大正元年)11月18日 – 2005年(平成17年)10月24日)は、日本の海軍軍人。海兵61期 最終階級は海軍少佐。福岡県小倉市(現、北九州市)出身です。

板倉光馬少佐(写真①)は、私が若かりし頃購入した「あゝ伊号潜水艦」他の著書(写真②~④)で出会った、当時の品行方正な帝国海軍軍人の中では珍しく、破天荒な快男児でした。直情型の人間でありながら、どこか憎めず、また正義感の強い責任感のあるリーダーとして認識している軍人です。

板倉光馬少佐は3人兄弟の次男として生まれ、将来は画家を志していましたが、関門海峡を通過する聯合艦隊の美しさに魅せられたということで、海軍兵学校に志望を変更し、猛勉強の末に海兵61期に入校しました。

卒業席次は116名中7番ということで、エリート揃いの海軍兵学校時代の成績は非常に優秀でした。

ところが少尉候補生時代には既に問題児として名を馳せ、遠洋航海時には始末書を8枚書くという、とんでもない記録を作った“猛者”でした。その航海で「始末書の書き方は板倉に聞け」と言われたほどの問題児として知られるようになりました。現在の我々の仕事においても始末書を複数書かされる人物は要注意人物として目を付けられ、反組織人としてレッテルを張られてしまうものですが、規律の厳しい当時の帝国海軍においても別格の存在です。

板倉光馬少佐の主な武勇伝は下記の通りです。

❶インド洋の猛暑下、夜食にアツアツのうどんが出て、これはたまらんと上半身裸で食べていたのが見つかり、大目玉を喰らった挙句に初の始末書...。

❷団体行動によるパリ見学の最中、他の候補生と2人で抜け出し、ルーブル美術館やムーラン・ルージュ(キャバレー)を心ゆくまで楽しんでホテルに帰ったところ、日本海軍の恥をしのんでも捜索願を出すかどうかで大騒ぎになっていた...。

❸地中海を航行中、練習艦“磐手”の艦橋直下シェルターデッキで「灯台元暗し」とばかりにマルセイユで仕入れたワインを他の候補生と楽しんでいたところ泥酔して眠り込んでしまい、翌朝甲板掃除の水をぶっかけられて目が覚めると、目の前に仁王立ちの指導官・・・といった具合に8枚の始末書...。

❹少尉任官後、戦艦「扶桑」乗組。続いて重巡洋艦「最上(もがみ:写真⑤)」乗組。 上陸時の帰艦時刻にルーズな艦長をはじめ高級士官の行状に憤り、酔った勢いも手伝って帰艦してきた艦長・鮫島具重大佐(写真⑧:当時)を殴りつけ、鮫島大佐の温情でかろうじて重巡洋艦「青葉」への転勤で済まされています(後述)。この間に潜水艦志望の意を固めたそうです。

❺水雷学校高等科学生を見事首席で卒業。中型の呂34号潜水艦勤務の後、1940年(昭和15年)潜水学校乙種学生時、卒業論文では「潜水艦の防水対策」をテーマとして、区画ブローを中心とした効率的なダメージコントロールを提案しました。これは後に高く評価され、潜水艦の応急処置として正式採用されました。                                そのほかにも上官が「おまえのような強情な部下は初めてだ」と言われると、「失礼ながら、あなたのような人が上官に居ては今後の潜水艦作戦がダメになる」と言い放ち、大目玉を食らい鉄拳制裁...。

❻伊2号(写真⑥)潜水艦長時代、ケ号作戦(令和1年7月号当コラム③:撤退艦隊に気象情報を通信し続けた)の参加の際、隊内で発生した水難事故を契機に、艦内の酒をすべて処分しようとして、乗員と共に艦内の酒を飲み尽くしました。酒宴の間は酒の飲めない乗員に甲板を見張らせ、落水防止のために絶対誰も甲板に出すなと厳命したが、その当の板倉少佐自身が甲板に登り、部下に「異常ないか!誰も甲板に上がっていないな?」と、確認したのちに甲板から立ち小便をしている最中にバランスを崩して水温0度近い海に落下し気絶。見張り勤務の部下に救出され、甲板上で蘇生措置を受けて九死に一生を得ました。その際、近くにいた潜水母艦の平安丸がこれに気づき「イカニサレシヤ」との信号を送るも、伊2号は艦長が海に転落したことをごまかすため、「溺者救助訓練ヲ実施セリ。作業完了、異状ナシ」と返信したとのこと。板倉少佐は一世一代の大恥としていますが、逆に部下からも、それを知った上層部からも「不死身」のあだ名をつけられ、畏怖されたそうです。

❼伊41号潜水艦に移り、ラバウル方面での作戦輸送任務を命じられラバウル移動し、途中で肉薄してきた大型のB24爆撃機の攻撃に対して、逆に帽子を振れと部下に命令することによって、味方と誤認させることにより攻撃回避に成功したり...。    

❽1944年(昭和19年)1月より4月まで、日本艦隊の墓場といわれたニューブリテン島・ラバウルで輸送任務にあたりました。その間、スルミに1回、ブーゲンビル島ブイン(写真⑦)に3回の輸送を行いました。ブインへの回数が多いのは、「是非伊41号潜水艦を」という第八艦隊司令長官・鮫島具重中将(写真⑧:少尉時代の板倉少佐が殴った「最上」艦長)のたっての希望によるそうです。(この時、板倉少佐は鮫島中将に手土産としてウィスキーを届けています。)  この時のエピソードは有名です。

板倉少佐は己を殴った一少尉のために、わざわざ当時の海軍のトップである長谷川海軍次官を訪ねて、板倉少佐の海軍士官としての助命の労をとってくれた、正にその恩人が、敵に囲まれた離島で糧食も尽きながら日夜、死闘を続けていたことを知り、公私を超えて、人間としての感動が、電流のように板倉少佐の身体を走ったそうです。目に見えない一本の糸が、運命の絆としてつながっていたと感じ、ブイン輸送はどんなことがあっても、成功させなければならないと板倉少佐は思ったそうです。

板倉少佐は鮫島中将に、「八年前、長官を殴った一少尉が、潜水艦長としてブイン輸送の命を受けて参りました。往時を回想し感慨無量であります。小包の品は、私の寸志であります……」と、土産のサントリーの角瓶を贈り、鮫島中将は椰子の木で作った手製の7つのパイプと丁寧な手紙を贈りました。その後、鮫島中将はブインを死守して終戦を迎えました。1946年(昭和21年)3月、予備役に編入された後、板倉少佐と戦後の軍事裁判の場で再会、二人は涙を流して再会を喜び、手を取り合ったそうです。

昭和32年鮫島中将が脳溢血で倒れ、余命いくばくもなく入院しているときに、板倉少佐が見舞いに行った際、声の出ない鮫島中将は、弱々しいながらもしっかりと、部屋の一角を指さします。そこには、あの時ブインに届けたサントリーの角瓶に、白い山茶花が一輪、添えられていました。付き添っていた夫人が、「主人がブーゲンビル島から着の身着のままで帰りましたとき、サントリーの空き瓶を後生大事に抱え持っていましたので、その訳を尋ねましたら、『これは板倉艦長が命がけでブインに持って来てくれたものだ。これだけは手離せなかった』と申しました」。その瞬間、鮫島中将の顔が微笑むのを見て、板倉少佐はその場で、ワッと泣き伏しました。自分を殴った一少尉の命乞いをしたばかりでなく、ささやかな贈り物を形見のように大事にする、その広大無辺な温情に、板倉氏は大きく感激したそうです。

板倉少佐は、1944年4月に内地へ帰還、そこで、マーシャル諸島の米海軍基地、メジュロ環礁を攻撃する「竜巻作戦」への支援を求められます。

作戦に使用する特四式内火艇(水陸両用魚雷艇:魚雷を積んで警戒の薄いサンゴ礁を乗り越える)が作戦に必要な実用性を備えていないと看破します。

月夜を利用するため、静粛性が求められる作戦なのにエンジンの騒音がひどく、さらに本来砂浜への上陸に使う水陸両用輸送車のキャタピラでは、起伏が激しいサンゴ礁の突破は無理だったのです。  

しかし、海軍期待の奇襲作戦だった竜巻作戦を公然と批判したことで上層部から激怒され、一時は第六艦隊(潜水艦隊)から銃殺刑を申し渡されるほどの状態でしたが、艦長としてのキャリアを買われ、結局不問となって同年8月から人間魚雷「回天」指揮官となりました。特攻部隊の指揮官としての心労は“豪傑”の板倉少佐にとっても非常に激しかったようで、幾度も自ら出撃を希望しましたが許可されませんでした。 終戦時の玉音放送は聞き取り難かったということもあり、板倉少佐は緊急事態に備えて48時間以内に「回天」全基を使用可能なように急速整備を命じました。結局戦争が終わったことが判明したため、出撃するには至らず、武装解除となりました。

その後、自決しかけたところを説得され、回天隊の戦後処理が板倉少佐の海軍最後の仕事となります。 戦後は公職追放などで苦労されたようですが、防衛庁海上幕僚監部技術部、三菱重工神戸造船所を経て、海上自衛隊初期の国産潜水艦“はやしお”の深々度潜航テストに乗艦指導などをした後に退職、2005年に92歳でこの世を去りました。 “合掌”

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