大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉜

query_builder 2022/04/08
歴史編

第32回は、藤原岩市(ふじわら いわいち(写真①~③)1908年(明治41年)3月1日 – 1986年(昭和61年)2月24日)は、兵庫県多可郡津万村(現在の西脇市)に生まれる。1931年陸軍士官学校卒1938年陸軍大学校卒、歩兵第37連隊中隊長、第21軍参謀を歴任。1939年大本営参謀本部に転任、第8課で広報・宣伝を担当。1941年タイ・バンコックに赴任、南方軍参謀兼任の特務機関(F機関)機関長として活動を開始。主な任務はマレイ、スマトラ、インドの独立運動の支援と対日融和政策の推進、英印軍将校モハンシンらとともにINA(インド国民軍)の創設、インド独立運動のリーダー、チャンドラ・ボースの招聘など、多大な成果をあげる 最終階級は陸軍中佐、戦後陸上自衛官です。

現在殆どの日本人は「F機関」の存在すらご存じないと思います。 私の学んできた歴史は、その多くが戦いの歴史です。その戦の一つ一つを掘り下げて研究していくと、その当時の人々の心の状態が痛いほど伝わってきました。

そしてそれぞれの戦(いくさ)における<大義名分>と<誠(まこと)>が強いほど、人は死を恐れず戦う傾向にあるということが分かりました。このことは現代における“経営”にも多くのケースで当てはまります。 藤原岩市中佐は、以前に本コラムで取り上げた「小川三郎中佐」と同じく、インド独立に多大な貢献をされた軍人です。小川三郎中佐は、インド人に対して「誠」を命を賭して実践して見せた軍人でした。

(https://brain-supply.co.jp/column/history/20211223203038-3838/)

そして藤原岩市中佐は、アジア解放・諸民族団結を求めた当時の昭和天皇の大御心を実践した大東亜戦争における傑出したリーダーであったと思います。

藤原中佐が作ったF機関のFは<フリーダム、フレンドシップ、フジワラ>の頭文字です。白人支配からの解放を旗印にマレー半島で暮らすインド系住民の宣撫(せんぶ)工作を進め、白人植民地からの解放を旗印に東亜民族の団結を謳い、日本軍への協力を求めることが主任務でした。

わずか11人のメンバーを率いて、秘密結社IIL(インド独立連盟)とバンコクにおいて協力関係を築き、英国に編入されているインド兵とIIL兵は戦場で混乱することを避けるため、F機関の「F」と書かれた腕章を密かに着けることで同士討ちを避けました。

F機関11名は、「私達は、力をもって敵や住民を屈服するものではない。威容をもって敵や住民を威服するものでもない。私達は徳義と誠心を唯一の武器として、敵に住民に臨むのである」と、ほぼ丸腰で戦地で活動しました。

シンガポールが陥落した42年2月(写真④立っている右から二人目(※1))には、英軍に編入されていた5万人のインド兵を前(写真⑤)に「民族の自由と独立は、民族自らが決起して、自らの力で闘い取らなければならない(詳細は後述)」と大演説を行い、歓喜の嵐に包まれました。

※1・・有名な「マレーの虎」山下奉文大将と英国アーサー・パーシバル中将の降伏交渉写真

マレーシア出身の日本人である谷豊(たにゆたか)を諜報要員として起用したのもF機関でした。谷豊は死後、「マレーのハリマオ(写真⑥)」として日本で英雄視され、連続テレビドラマにもなりました。  

藤原中佐は、マレー半島で占領した地域の治安維持を、昨日まで戦っていたインド兵の将校に依頼しました。また投降してきたインド兵との昼食会では、インド料理を右手で食べ、あくまで誠実にインド人を下に置かず、平等に扱いました。当のインド兵将校の驚きは大きいものでしたが、藤原中佐は、「私は絶対の信頼と経営を得ようとするなら、まず自ら相手にそれを示す必要があると信じた」と述懐しています。そのお陰で、白人の代わりにやってきた日本人は信頼に値するアジアの仲間だとの認識が生まれました。  

マレー半島で日本軍の進撃スピードが、補給が追い付かなくなる程早かった裏には、藤原中佐が行った宣撫工作によって、投降を呼びかけるビラを握りしめて投降するインド兵が多かったことと、インド系住民の協力が非常に多かったことが大きな要因でした。  

シンガポール占領後、英軍のインド人兵捕虜をF機関が代表して接収することになり、市内の公園に集められました。何と予想の3倍を超える5万人もの数でした。 そこで藤原F機関長は堂々と演説(写真⑤)を行いました。

「シンガポールの牙城の崩壊は、英帝国とオランダの支配下にある東亜諸民族の漆黒の鉄鎖を寸断し、その解放を実現する歴史的契機となるであろう。そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力をもって闘い取られたものでなければならない。日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の闘いのために忠誠を誓い、INA(インド国民軍)に参加希望するものにおいては、日本軍は捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである….。」

この40分以上にわたる大演説に、インド兵捕虜は狂喜乱舞しました。 藤原中佐の素晴らしいところは、自身の立身出世などが全くなく、上記の演説の言葉を実践していったことです。

そして昭和17年4月、帰任の命令を受けて帰国する際(写真⑦)に、INAから感謝状を授与されます。そこには「幾十万の現地インド人の命を救い、その名誉を守った」ことに対しての最大限の感謝の言葉が綴られていました。

このINA(インド国民軍(写真⑧))は日本の敗戦後もインド独立の精神的支柱となりました。  

その後ビルマ方面軍の参謀として1944年のインパール作戦に参加中、藤原の下に第15軍司令官の牟田口廉也中将(戦後陸の3馬鹿と揶揄:私が最も軽蔑する陸軍軍人の一人:写真⑨)が、「作戦の失敗の責任を取って、腹を切って陛下や死んだ将兵にお詫びしたい」と相談してきた。これに対し藤原中佐は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり、止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と答え、牟田口は悄然としたが自決することはなかったようです。

日本の終戦後、藤原中佐はシンガポールのチャンギ刑務所に拘留され、F機関が行った様々な工作に関する厳しい尋問が行われました。その時の英軍のマレー探偵局長との会話は大変興味深いものです。植民地の搾取に徹した欧米と、共存共栄を図ってきた我が国の根本的な違いが明白です。  

<英軍探偵局長>  

「貴官は一般歩兵将校で、陸軍大学校卒業後、野戦軍参謀を経て、短期間大本営の情報、宣伝、防諜業務にたずさわっただけで、この種秘密工作の特殊訓練や実務経験のない素人だという。しかも、語学も、現地語能力は皆無、英語はろくろく話せないとのこと。その上、戦前、マレー、インドの地を踏んだ事もなく、この度の現地関係者と事前に、何の縁もなかったと訴える。更に貴官の部下将校は海外勤務の経験も、この種実務の経験もない若輩の将校であったとの事。そんなメンバーから成る貧弱な組織で、このようなグローリアス・サクセスを収めたと云っても、納得できるだろうか、納得し得る説明を加えられたい」  

私(藤原中佐)は、この好意の局長に満足を得る回答を与えたい、局長の云うことも道理だと思うけれども、名答が浮ばない。私はしばし考え込んでしまった。そして、これより外にないと思い至った所信を、誠意をこめて語った。

<藤原中佐> 

「それは、民族の相違と敵味方を超えた純粋な人間愛と誠意、その実践躬行(きゅうこう:自らが行うこと)ではなかったかと思う。私は開戦直前に、何の用意もなく準備もなく、貧弱極まる陣容で、この困難な任務に当面した時、全く途方に暮れる思いに苦慮した。そしてハタと気付いたことはこれであった。英国も和蘭も、この植民地域の産業の開発や立派な道路や病院や学校や住居の整備に、私達が目を見張るような業績を挙げている。しかしそれは、自分達のためのもので、原住民の福祉を考えたものではない。自分達が利用しようとするサルタンや極く一部の特権階級を除く原住民に対しては、寧ろ、故意に無智と貧困のまま放置する政策を用い、圧迫と搾取を容易にしている疑いさえある。ましてや民族本然の自由と独立への悲願に対しては、一片の理解もなく、寧ろこれを抑制し、骨抜きにする圧政が採られている。絶対の優越感を驕って原住民に対する人間愛――愛の思いやりがない。原住民やインド人将兵は、人間、民族本能の悲願――愛情に渇し、自由に飢えている。あたかも慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、私は、私の部下とともに、身をもって、この弱点を衝き、敵味方、民族の相違を超えた愛情と誠意を、硝煙の中で、彼らと実践感得させる以外に、途はないと誓い合った。そして至誠と信念と愛情と情熱をモットーに実践これを努めたのだ。われわれが、慈母の愛を以て差し出した乳房に、愛に飢えた原住民、赤ん坊が一気に、しがみついたのだ。私は、それだと思う、成功の原因は」と力説した。  

<英軍探偵局長> 

「解った。貴官に敬意を表する。自分は、マレー、インド等に二十年勤務してきた。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことがついにできなかった。」

私がこのコラムでお伝えしたいことの多くが、この藤原岩市中佐の回答の中に綴られています。我々が学んできた近代史、昭和史、教科書、マスメディアの喧伝はアメリカをはじめ欧米戦勝国によって書き換えられ、押し付けられた偽りであり負の歴史でしかありません。真実からほど遠い虚偽の歴史ともいえます。日本が侵略戦争をしたなど全くの出鱈目です。日本は外国との戦において、自国よりも強い相手としか戦っていません。

侵略を企図している国が、リスクマネジメント上、自国よりも強大な国と戦うことは有りません。(※2)

 ①白村江の戦(663年)×唐・新羅の連合軍

 ②元寇(1274年、1281年)×高麗軍・元軍(高麗の忠列王がフビライを唆して侵略)

 ③下関戦争・薩英戦争(幕末)×イギリス・フランス・オランダ・アメリカ

 ④日清戦争(1894~95年)×清(現中国)

 ⑤日露戦争(1904~5年)×ロシア

 ⑥日中戦争(1937~45年)×中国

 ⑦大東亜戦争(1941~45年)×アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ソ連他連合軍                   

日本のどこが侵略国家なのでしょうか。この不名誉なレッテルだけは、私が生きている間に払拭したいと思っています。

そして日本が先の大戦で戦った結果が戦後77年の経過ではっきりしています。戦前の独立国は50か国ほどでしたが、戦後アジア・アフリカを含め200カ国近くの多くの国が独立を果たしています。共産主義ではなく帝国主義であった旧ソ連も崩壊し、多数の民族が独立を果たしました。

当時日本以外でアジア・アフリカの独立国は、エチオピア、チベット(戦後中国に侵略された)、タイ、そして欧米の反植民地で軍閥が内戦を繰り返す中国の5カ国しかありませんでした。その中で欧米の帝国主義・植民地主義・白人至上主義と戦えるまともな国は、日本しかなかったのです。

そのことを当時の日本人は理解していました。大義名分は我が国にあったのですが、我国一国で白人国家群と戦うには余りにも力が無さ過ぎました。

それでも藤原岩市中佐のように、牟田口廉也の如くに地位に溺れ、名誉欲、私利私欲に走ることなく、信念に基づき、愛情と誠実さを体現していく先に、多くの人々の心を動かすエネルギーを生み育てることが出来ることが証明されています。

「組織は人なり」との言葉が知られていますが、指導者がどのレベルの人物で、どのレベルのエネルギーを発しているかで決まるように思います。 このことを肝に銘じて、お客様に「共存共栄の精神」をお伝えしていきたいと思います。

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