大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉝

query_builder 2022/06/10
歴史編

第33回は、寺内正道(てらうち まさみち、1905年(明治38年)、栃木県に生まれ。海軍兵学校第55期を卒業、海軍中佐(写真①⑩⑫)です。同期に岡田啓介(海軍大将で二二六事件当時の首相)の長男・岡田貞外茂(1908~1944年)、鈴木孝雄・陸軍大将(鈴木貫太郎海軍大将、終戦時首相の弟)の二男、鈴木英(1908~1985年)がいました。

1940年から1941年にかけて第十四号掃海艇艦長、 1943年から1945年にかけて、奇跡の幸運艦・駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)(写真③④)」の艦長を務めました。

駆逐艦雪風時代には多くの海戦に参加しながら無傷であったことから不沈艦の名艦長と呼ばれるようになりました。

寺内中佐のことは、私の愛読書の一つである、元海軍士官の豊田穣氏の「雪風ハ沈マズ(写真⑪)」で知り、寺内中佐の豪放磊落な姿に憧れを持ちました。

寺内正道中佐は、海軍兵学校では120名中119番の成績で、ビリから二番目と相当悪いけれど、実践には滅法強い、生粋の水雷屋(駆逐艦乗り)として有名な存在でした。お酒と芸者遊びが大好きで、出世からは見放され、大尉を7年(通常3~5年)も務めていますが、いざ戦いの場に身を置いたら、八面六臂の活躍を見せる、率先垂範型の典型的な日本海軍のリーダーの一人です。

 戦争末期のこの時期、珍しく優勢であった、サマール島沖海戦(1944年10月24日、レイテ沖海戦における4つの海戦の一つ(写真⑤⑥))では勇戦した米駆逐艦ジョンストン (DD-557(写真⑦))が沈みゆく際に、退艦する短艇(救命いかだ)に対して、雪風の機銃員が思わず射撃を加えたのを見た寺内中佐は、「逃げる者を撃ってはならぬ、撃ち方やめ、やめ!」と大声で制し、同日10時10分に駆逐艦ジョンストンが沈没するときには艦橋から敬礼を送り、ジョンストンの短艇をそのまま見逃しました。

このことは、記録(注1)がアメリカ側に残っています。当時の米軍は、漂流する日本人を、容赦なく機銃掃射で射殺していました。生かしておくと、また自分たちが後日攻撃される可能性があるからです。ところが寺内中佐は、当時日本軍人が持ち合わせ、大切にしていた「武士道」を重んじる人物でした。これは駆逐艦「雷(いかずち)」艦長であった工藤俊作中佐(本通信2020年7月号記載)にも通じるものがあります。

https://brain-supply.co.jp/column/history/20211215-3787/

(注1)「・・・そして多くのジョンストンの生存者が生涯忘れられない光景を目にした。日本の駆逐艦の艦橋で、ひとりの士官が直前まで仇敵だったジョンストンが波間に沈んでいくのをじっと見ていた。その誇り高き船が姿を消した時、この日本の士官は手を帽子のひさしにあてて直立の姿勢をとった. . 敬礼したのだ。 ①      "And many of Johnston’s survivors then witnessed something they would never forget. There on the bridge-wing of the Japanese destroyer, an officer stood watching as Johnston, his mortal enemy of just moments before, slipped beneath the waves. As the noble ship went down, this Japanese officer lifted a hand to the visor of his cap and stood motionless for a moment . . . salutin."—  トマス・J・カトラー『The Battle of Leyte Gulf 23-26 October 1944』


この乗船の奇跡の幸運艦・「雪風」ですが、下記の戦歴を誇り、 8回以上の海戦に参加しています。  

1940年1月20日  佐世保工廠で竣工

1941年12月5日  レガスピー攻略作戦支援のため出撃

1942年10月26日   南太平洋海戦参加

1942年11月12日   第3次ソロモン海戦参加 (至近弾を浴びるが無事)

1943年7月12日      コロンバンガラ島沖海戦参加 (魚雷が艦底に当たるが無事)

1944年6月19日      マリアナ沖海戦参加

1944年10月24日   比島沖海戦参加

1944年11月28日   空母信濃の護衛のため横須賀出港

1945年4月6日         徳山出撃、大和沖縄特攻に参加(甲板に穴が開くが不発弾)

1945年8月15日       宮津湾で残存(空襲でロケット弾を食らうも不発弾)

1945年10月5日       除籍  (舞鶴に回航される途中機雷に接触、爆発せず)

1947年7月6日          賠償艦として中国に引渡し(中華民国海軍の旗艦「丹陽」となる                その舵輪と錨は、日本に送られ、江田島の海軍兵学校跡に展示)

これだけの激戦を戦い抜き、終戦を迎えたとき、81艦の駆逐艦(特型、甲型)は、ことごとく沈没し、「雪風」だけが残ったのでした。戦争中を通じて、戦闘による死者は10人以下と極めて少数でした。戦時中の艦長4人(飛田健二郎、菅間良吉、寺内正道、古要桂次)は戦後も全員健在でした。

殆どの艦船、航空機を失った大東亜戦争において、これほどの幸運艦はありません。  

さらにそこに操舵の神様といわれる寺内正道中佐が艦長として君臨していました。

戦後生き残った乗組員たちが口を揃えて「寺内艦長のお陰だ」と言い切っています。寺内中佐の戦い方が半端なく、鉄兜だけで、ハッチから頭を出して三角定規を手に相手を目測で確認、舵取りの航海長を足で蹴って合図を出し、右に左に舵を取らせ、思い切り蹴るときは急転舵etc.。

戦闘が始まっても、いつも通り象牙のパイプを咥えたままで、周りに不安感を抱かせず、堂々と士気を執っていたといわれています。


<ある乗組員の回想>
「昭和18(1943)年、私に下ったのが、駆逐艦「雪風」への乗艦命令です。これに乗り組みを命じられたこと自体が、私の運命を決定付けたと言っても過言ではないと思いますね。雪風は最後まで残った優秀艦で、「奇跡の駆逐艦」とも言われています。 呉軍港で乗艦しました。全長118メートル、(基準排水量)2000トンの駆逐艦です。魚雷を発射する所が2カ所あって、私は後部の2番連管(発射管)の射手。魚雷は長さ9メートル、直径60センチで計16本積んでいるんです。火薬庫を積んでいるのと同じです。直撃弾を受けて誘爆したら一発ですよ。280人乗ってましたが、一人も生き残ることはなかったでしょう。  
私が雪風に乗艦してから数日後に、寺内正道艦長が乗り組んできました。口ひげをはやし、操艦術が神業のようにうまい、優れた人でしたね。栃木県の方で、水雷の出身です。乗組員に対して、「俺が雪風に乗った以上、絶対にこの船は沈まないから、お前ら安心して俺の言うことをよく聞いてくれ」と訓示したんです。聞く方にすれば頼もしいですよ。古参兵の連中は「これは大変な艦長が乗ってきたぞ。雪風も大丈夫だ」と話していましたね。」

寺内中佐は、1944年11月25日、戦艦「長門(戦後ビキニ環礁水爆実験で沈没)」の護衛を終え、横須賀に無事帰投しました。その後、「雪風」所属の第十七駆逐隊の「浜風」「磯風」を含む3隻で、新大型空母「信濃(大和型3番艦:空母に改装:62,000トン)」回航の護衛を任され、28日深夜出撃、「信濃(写真⑧)」は敵潜水艦「アーチャーフィッシュ(写真⑨)」の雷撃を受け、戦闘に参加することもなく、撃沈されました。空母信濃、こちらは日本一の不運艦といわれております。

1945年4月6~7日に行われた戦艦「大和」を中心とした沖縄海上特攻に参加し、坊ノ岬沖海戦を戦い抜きました。帰還後は呉鎮守府付けとなり、呉特別防備隊司令として終戦を迎えました。最終階級は海軍中佐。

戦後(写真⑩)は専売公社に勤めました。 1978年1月19日、回盲部腫瘤のため東京都狛江市の東京慈恵会医科大学附属第三病院で死去。72歳でした。    

“合掌”