大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㊳ ~怪傑ハリマオ 谷 豊~

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歴史編

第38回は、谷豊(たに ゆたか、1911年〈明治44年〉11月6日 – 1942年〈昭和17年〉3月17日写真①)は、昭和初期にマレー半島で活動した盗賊。福岡県筑紫郡曰佐村五十川(現在の福岡県福岡市南区五十川)出身で、イギリス領マレーに渡った後に盗賊となり「ハリマオ」として一躍知られる存在となりました。その後、日本陸軍の諜報員となって活動しました。ムスリム名は「モハマッド・アリー・ビン・アブドラー」。)です。

サングラスとターバン姿をトレードマークに、マレー半島で善を助け、悪を懲らしめる正義の味方「快傑ハリマオ」。私が生まれる(昭和38年7月11日)以前、昭和35年(1960年)に石森章太郎の漫画で「少年マガジン(写真③)」に連載が始まり、同年テレビドラマ化(写真②)もされたことを、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。この「快傑ハリマオ」のモデルとなったのが、谷豊です。その風貌は優男に見えますが、内に秘めたる闘志は本物で、戦後子供たちの英雄として、脚光を浴びました。私もドラマの歌だけは良く聞かされていました。

実は私の両親が独立前に出会ったのは当時勤務していた「怪傑ハリマオ」の制作会社である「宣弘社」です。私が知っているのは月光仮面とかシルバー仮面、光速エスパー等ですが。 https://www.youtube.com/watch?v=sUYB6BWUF6A

谷豊は明治44年(1911)、理髪業を営む谷浦吉の長男として、福岡県筑紫郡日佐村(現在の福岡市南区)に生まれました。大正2年(1913)、豊が2歳の時に、一家はマレー半島のクアラ・トレンガヌ(写真④)に移住し、理髪業(写真⑤)を始めます。当時のマレー半島はゴムや錫(すず)の生産で繁栄しており、日本企業も多く進出して、トレンガヌ州には日本人街もできて賑わっていました。豊の家族は、そんなマレーで一旗上げるべく移住したのです。子供の頃の豊の遊び相手は、マレー人や中国人でした。

大正7年(1918)、父親の「日本人は日本の教育を受けるべき」という方針から、谷豊は妹と帰国し、伯父の家から小学校に通います。 昭和2年(1927)、16歳の時にマレーに戻り、家業を手伝いました。当時の谷豊は気さくで、喧嘩っ早かったといわれています。19歳の頃、イスラム教に改宗、マレー人との結びつきはより強まりました。昭和6年(1931)、豊が20歳の時、父親の命令で徴兵検査を受けるため、再び福岡に赴きます。しかし結果は不合格。身長が155cmに僅か1cm足りませんでした。谷豊は国内の鉄工所などで働き、休日には仲間と飲み屋で騒ぎますが、この頃からリーダー的存在だったといいます。また貧しい友人に、自分の田を売って資金援助をしたりもしました。

そのころマレーシアでは、満州事変に怒った華僑たちが排日運動を起こしており、1932年11月、自宅で病気のためで寝込んでいた妹の静子を、排日暴徒の華僑が襲撃し、惨殺。その首を切り落としてサッカーボールのように蹴り転がしていたそうです。私の研究したところによると、中国人の殺害方法は昔から残虐です。死者を悼む日本人には理解不能なところがあります。1937年に発生した通州事件でも日本人居留民200人が惨殺され、それをきっかけに、日中の全面戦争へと広がっていくことになっていきます。

マレーシアから帰国した谷豊は、1934年7月、単身マレーシアに向かい、父から受け継いだ理髪店(写真⑤)を営みながら、金で無罪判決を買い取った犯人を探し出しますが、当時経済を華僑に握られていたマレーシアでは、どうすることもできませんでした。

そこで谷豊はマレー人たちと徒党を組み、統治者のイギリスに取り入ってマレー人から搾取している華僑たちを専門に襲う、盗賊団のドンになりました。決して殺人はしませんでしたが、盗んだ金品を、付近の貧しいマレー人の家にばら撒き、民衆から大いに支持されたそうです。その民衆から「ハリマオ(マレー語で虎の意)」と呼ばれました。谷豊は敬虔なムスリムで、マレー語とタイ語に堪能でしたので、誰もがマレー人と信じて疑わなかったそうです。戦後日本人を非難したアジア人というのは、この戦争によって、白人と共に現地の人々を搾取していたため、日本軍から既得権を奪われた、アジア各国の華僑の人たちです。谷豊はマレーで20万ドルの賞金首となっており、部下の一人が無銭飲食でタイ警察に捕まった際に、飯代と罰金を届けに行って逮捕されてしまいました。

その当時、日本陸軍参謀本部では、南方作戦に備えマレー半島に関する調査・研究をしており、諜報員として谷豊を活用しようと企図。F機関の藤原岩市少佐

https://brainsupply.co.jp/column/history/202204121357003908/ 本通信2022年4月号:写真⑥)

の下で諜報活動をすることになった民間人の神本利男(かもととしお:写真⑦)が、僅か25バーツの金で賄賂を留置場の責任者に渡して釈放に成功しました。


余談ですが、タイの警察は今も昔も、この賄賂で生活しています。これも私が普段申し上げている「チャイニーズ・スタンダード」の一つで、この文化を理解しないと、日本企業は東南アジアで成功できません。良いか悪いかではなく、日本以外のアジアの国はそのようなスタンダードが定着しているのです。

神本利男は豊を日本軍へ協力するよう説得しましたが、マレー人として生きていくことを望む谷豊の説得は困難でした。しかし、マレーの習慣を学び、将来ムスリムの洗礼を受けたいとの神本の熱意にほだされて、軍への協力を引き受けることになりました。 その後開戦の1か月前に日本にいる母と姉に下記の手紙を送ることになります。

その後、マレーの独立のために、ハリマオ団を率い、イギリスとの緒戦のジットラ陣地の攻防戦で日本軍の奇跡的大勝利を導きました。この戦いに惨敗したイギリス軍は、破竹の勢いで迫る日本軍の前になすすべもなく敗退に敗退を続けました。ハリマオ団は、敗退するイギリス軍に先回りして、ジャングルの奥深く山中を突き進み、マレー人の集落を訪れては「ジョヨボヨの聖戦(注1)」を宣伝して、日本軍への協力要請と共に、独立への熱い思いを語って、宣撫(せんぶ)(日本軍の方針を伝えて住民を安心させること)に全力を上げました。

このハリマオ団の八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍によって、マレー人の協力を得ることが出来、山下奉文大将(本コラム2020年4月号記載https://brain-supply.co.jp/column/history/20211210-3670/) 率いる日本軍によるマレー作戦を大勝利に導くことができたのでした。開戦後70日のことでした。

その頃、谷豊はジョホール・バルの野戦病院で、作戦遂行上のジャングルにおける活動で、発症したマラリアをこじらせ、高熱で意識朦朧(もうろう)とする中で、この歴史的な朗報を聞きました。

開戦前、谷豊をタイの監獄から救い出し一心同体となって谷豊の作戦指導を担当し行動を共にしてきた神本利男はF機関長・藤原岩市少佐の命令で重体となった谷豊をジョホール・バルの野戦病院からシンガポールの病院に移してベッドに横たわる谷豊に返書として母親から届いたばかりの手紙を読んで聞かせました。


谷豊と神本利男にとって、マレーやシンガポールを長い間植民地支配し搾取(さくしゅ)の限りを尽くしてきたイギリス軍を相手に戦った、植民地解放戦争の最前線に参加、イギリス軍の降伏を見られたことが、「楽しい1年だった」と生と死の別れ際に述懐したそうです。

その2日後の昭和17年3月17日、シンガポールの病院にて谷豊は病没しました。享年31歳でした。本人の願い通り、死ぬ前に、それまでの肩身の狭い思いをさせた親不孝に対する母の許しを得て、あの世へと旅立ったのでした。

ハリマオこと谷豊の訃報に接した藤原岩市少佐は、悲しみに暮れながら民間人の協力者の立場であった谷豊を軍属として陸軍省に登記しました。その結果、マレー作戦の大成功及び戦後のマレーシア独立の立役者となった英雄「谷豊」は、靖国神社に英霊の一柱としてまつられているそうです。

谷豊が愛したマレーシアでは、1996年に初めて彼をテーマとしたドキュメント番組が放送されたそうです。その中で最後の締めくくりのフレーズは、“イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシア人の心を捉えられなかった。心をとらえたのは、マレーを愛した一人の日本人だった。”でした。 “合掌”

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