大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㊱ ~雷撃の神様  村田重治~

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歴史編

第36回は、村田 重治(むらた しげはる、1909年(明治42年)4月9日1942年(昭和17年)10月26日)少佐(戦死前:写真①②③)です。日本の海軍軍人で「雷撃(注1)の神様」と謳われた日本海軍屈指の搭乗員でした。長崎県島原市出身 海兵58期。南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死しました。二階級特進により最終階級は海軍大佐 となりました。     

(注1):雷撃(らいげき)とは、軍艦・航空機などが、魚雷を敵の艦船に向けて放つこと。雷撃を専門に行う軍用機は雷撃機と呼ばれます。


当時の長崎県立島原中学校では、このような性行表(人の性質と行動を評価した)が記されており(現在の学校ではお目にかかることはありません。)、村田重治少佐は学業の優秀さに加えて、前頁のように、授業態度や生活習慣における、心の持ち方が極めて優れていたことが窺えます。私の人生経験においても、心の持ち方が優れている人物は、仕事や生活における「態度」にも表れていることが多いと感じます。 村田重治少佐の有名な戦績の一つが、1937年(昭和12年)7月に勃発した支那事変における誤爆事件です。村田大尉(当時)は、同年12月1日、十三空分隊長として上海の公大基地に着任、更に常州に進出しました。12月12日、村田大尉の操縦する九六式艦上攻撃機(写真⑤)と僚機で高度2500mからの水平爆撃の直撃弾で「パナイ号」を撃沈(写真④)しました。そのとき村田大尉は、攻撃したのは中国船と思っていましたが、後に米艦パナイ号であることが判明しました。日本側はアメリカ側に誠意を示して陳謝しましたが、攻撃した村田大尉にはお咎めはありませんでした。そもそも交戦中の主戦場に第3国である米砲艦が入り込んでいたこと、高度2500mからの攻撃では、国旗が判別できないこと(後の報告では国際法上のルールであった米国旗を掲げていなかった)、早々に多額の賠償金を支払ったことで日本側が対米関係悪化を恐れて事態の収拾を図ったからです。

当時の長崎県立島原中学校では、このような性行表(人の性質と行動を評価した)が記されており(現在の学校ではお目にかかることはありません。)、村田重治少佐は学業の優秀さに加えて、前頁のように、授業態度や生活習慣における、心の持ち方が極めて優れていたことが窺えます。私の人生経験においても、心の持ち方が優れている人物は、仕事や生活における「態度」にも表れていることが多いと感じます。 村田重治少佐の有名な戦績の一つが、1937年(昭和12年)7月に勃発した支那事変における誤爆事件です。村田大尉(当時)は、同年12月1日、十三空分隊長として上海の公大基地に着任、更に常州に進出しました。12月12日、村田大尉の操縦する九六式艦上攻撃機(写真⑤)と僚機で高度2500mからの水平爆撃の直撃弾で「パナイ号」を撃沈(写真④)しました。そのとき村田大尉は、攻撃したのは中国船と思っていましたが、後に米艦パナイ号であることが判明しました。日本側はアメリカ側に誠意を示して陳謝しましたが、攻撃した村田大尉にはお咎めはありませんでした。そもそも交戦中の主戦場に第3国である米砲艦が入り込んでいたこと、高度2500mからの攻撃では、国旗が判別できないこと(後の報告では国際法上のルールであった米国旗を掲げていなかった)、早々に多額の賠償金を支払ったことで日本側が対米関係悪化を恐れて事態の収拾を図ったからです。


村田少佐は、どんな時でも笑顔でユーモアを絶やさず、常に張り詰めた場をもそのくだけたジョークで華やかにし、部下はもとより同期や上官、指揮官までからも「ブーツ」というあだ名で呼ばれ、信頼されました。また、その神がかりな雷撃操縦から「雷撃の神様」とも呼ばれるようになりました。 写真⑥は、1968年の映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」に登場した村田大尉(加山雄三:映画では雷撃の神様:伊集院大尉)として登場しているシーン(右側二段目)です。私はこの映画を50回以上見ており、米映画「トラ・トラ・トラ」と合わせて大好きな映画のひとつです。 真珠湾攻撃訓練中の鹿児島湾上空で、艦上爆撃機操縦の木村中尉(黒沢年男)とぶつかりかけ、木村中尉は上官から「顎が外れるほどぶん殴ってくださいと伝えているので、すぐに謝ってこい」と命じられ、しぶしぶ謝罪に来た木村中尉に、「あれが実戦なら敵艦轟沈間違いなし。雷・爆連携プレー見事なり!」と気にする素振りを全く見せず、ユーモアで返すシーンがありました。これをみて、ああこの役は間違いなく村田重治少佐のことだと感じたものです。 しかし村田少佐は、一人のときは寡黙で、家族と談笑するよりも一人で愛用の電気蓄音機から流れるポピュラー音楽(特にボレロ)に耳を傾けるほうを好んだそうです。 私は歴史が大好きで、数多くの英雄伝といわれるものを読み漁ってきましたが、本物の強い漢、英雄といわれる人は、感情をむき出しにする勇猛果敢な人よりも、寡黙な人の方が圧倒的に多いということを知りました。村田少佐はその典型的な人物の一人です。 ⑦真珠湾「赤城」第4中隊第46小隊 1番機 AI-311号村田機(1941) そして海軍はこの村田少佐の、雷撃屋としての腕と人柄を高く評価しており、彼を当時超極秘であった真珠湾攻撃スタッフとして真珠湾に向けての雷撃法を一任(注2)します。そして、期待に見事に応え、浅沈度板を取り付けた真珠湾用の魚雷と高度5~10m(真珠湾の深度は12m)という超低空飛行を村田少佐は完成させました(写真⑩)。


1941年(昭和16年)9月27日
空母「赤城(あかぎ)」飛行隊長兼分隊長に着任。第一航空艦隊(通称・南雲機動部隊)航空参謀源田実中佐のたっての希望で、雷撃の専門家として村田少佐が真珠湾攻撃のために異動することになりました。 「赤城」機関長の反保慶文大佐によれば、村田少佐は、終始真摯果敢な猛訓練をやり、攻撃隊総隊長の淵田美津雄中佐(本コラム2021年3月号:https://brain-supply.co.jp/column/history/20211215-3818/)も軍機中の軍機(軍の機密事項)である真珠湾攻撃を、村田少佐にだけは明かしていただきたいと上司に願い出たといわれています。 (注2)当時の航空魚雷は航空機から投下すると、いったん50mの深度まで潜り、そこから浮上してきて深度2mくらいで 敵艦に衝突する仕組みでした
1941年(昭和16年)12月8日
真珠湾には第一攻撃隊(雷撃隊40機)の指揮官として出撃しました。村田少佐の雷撃隊は「ウエスト・ヴァージニア」(写真⑧⑨)、「オクラホマ」などを攻撃しています。用意周到に計画された真珠湾攻撃は大成功に終わり、アメリカ艦隊に大打撃を与えることになります。その後も、南雲機動部隊はセイロン沖海戦などで連戦連勝を続けましたが、無敵の日本海軍機動部隊にも大きな転機が訪れます。


1942年(昭和17年)6月5日
ミッドウェー海戦に参加しました。日本は索敵ミスや南雲司令部の戦況判断ミスが重なった結果、主力空母4隻を失って大敗北を喫しました。村田少佐は、大破炎上する旗艦である空母「赤城」から辛くも脱出し、駆逐艦に救助され、生還しました。
1942年(昭和17年)7月
ミッドウェー海戦で壊滅した第一航空艦隊の後継部隊としての第三艦隊編成に伴い、空母「翔鶴(しょうかく)」飛行隊長に着任しました。
1942年(昭和17年)10月26日
南太平洋海戦に参加。村田少佐率いる第一次攻撃隊(零戦21機、九九艦爆21機、九七艦攻20機)は米空母ホーネットを撃沈(写真⑪)、空母エンタープライズ(写真⑫)を大破、駆逐艦ポーター撃沈、航空機74機撃墜・撃破という戦果を挙げました。 しかし、この攻撃で村田少佐は、空母ホーネットに肉薄し、雷撃後に乗機が被弾炎上、部下に別れの手を上げ、そのままホーネットの艦橋めがけて体当たりしました。
1943年(昭和18年)1月
その様子は鈴木武雄・長曾我部明中尉によって報告され、山本五十六連合艦隊司令長官の名で、彼の戦死と殊勲が全軍に布告されました。
1943年(昭和18年)3月
南太平洋海戦当時の第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官で佐世保鎮守府司令長官に異動していた南雲忠一中将が、村田重治少佐の島原の生家を弔問に訪れたとのことで、本当に惜しい人材の喪失となりました。享年34歳の若さでした。
1944年(昭和19年)2月10日附
死後二階級特進で海軍大佐に昇進。村田重治大佐は、常に悠々として、信頼と敬愛を一身に集めた優れたリーダーであり、優れた人格者でした。(合掌)


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