大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㊴

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歴史編


第39回は、江草隆繁(えぐさたかしげ(写真①②))1909年(明治42年)9月4日 – 1944年(昭和19年)6月15日)、日本の海軍軍人。広島県芦品郡有磨村下有地(現・福山市芦田町)に農家の九右衛門とキタの三男として生まれました。海兵58期。「艦爆の神様」と称されました。521空陸上爆撃機搭乗員として参加した「あ号作戦」で戦死。最終階級は海軍大佐です。 江草少佐は、昭和14年10月、岡村基春海軍中佐の妹・聖子さんと結婚します。媒酌人は大西瀧治郎中将(注1)夫妻。岡村中佐が「わが妹を嫁に やるに適した人物は、海軍広しといえどもこの男をおい て他になし」と妹に強く勧めたことが馴れ初めでした。
東京大学を超える高学歴集団である当時の海軍士官の間で、江草少佐と接する誰もが、「沈着冷静」「頭脳明晰」かつ冷静な人物と評していたそうです。 また大酒豪のようで、「江草の酒の強さは機動部隊一、連合艦隊一」と評されましたが、酔って乱れることは無かったようです。

(注1)特攻隊の父といわれ、フィリピンにて神風特別攻撃隊の編成・攻撃を命じた司令官。昭和20年8月15日に、 公言した通りに自刃して、特攻隊兵士の後を追いました。


江草少佐は昭和16年12月8日の真珠湾奇襲作戦では、第二次攻撃隊78機の指揮官を命じられ、第一次攻撃隊が真珠湾上空を去った直後の、対空砲火が唸りを上げる中、真珠湾の残存艦船の攻撃を実施(写真⑤)し、20機の損失を被り、自身の操縦する99艦爆(写真⑥)に多数の被弾を受け、燃料漏れを起こしながらも、何とか母艦「蒼龍」にたどり着きました。
昭和17年(1942)4月5日、インド洋でのセイロン沖海戦において、「艦爆の神様」と呼ばれた江草少佐率いる艦爆(艦上爆撃機:写真⑦)隊の目覚しい活躍で知られ、太平洋戦争中の最良の航空攻撃とも呼ばれます。4月5日午前9時。淵田美津雄中佐(2021年3月号https://brain-supply.co.jp/column/history/20211215-3818/)指揮の攻撃隊128機がコロンボ港へ出撃。これに対しイギリス軍は、ハリケーン、フルマーなど戦闘機40数機で迎撃しますが、大半は零戦(零式艦上戦闘機)に撃墜されました。 午後1時。機動部隊に敵イギリス巡洋艦2隻発見の報せが入り、江草少佐率いる九九式艦上爆撃機53機が発艦します。艦爆隊は午後3時55分、敵巡洋艦コンウォールとドーセットシャー(写真⑧)を発見、江草少佐は突撃準備体形を命じ、太陽を背にしました。 そして高度4000mから急降下に入り、午後4時29分に手前の巡洋艦を一番艦と定めて突っ込みます。高度450mで江草少佐は投下索を引いて爆弾を落とし、両手で操縦桿を握ると、渾身の力で引き寄せました。 機体が上昇に転じる際、自分の体重の5倍、あるいはそれ以上の荷重(10~13G)がかかり、目の前が真っ暗になり、人によっては失神するといわれています。 (※映画トップガン・マーベリックをご覧になった方もいると思いますが、急激な引き起こしでは失神して墜落する搭乗員がいたそうです。)
今回の攻撃では、操縦桿の引き起こしが僅かでも遅れれば、敵艦か海面にぶち当たって即死するという、恐るべき攻撃でした。江草少佐の爆撃は見事に命中しました。通常、先頭の一番機が最初から命中を得ることは極めて難しく、後続の二番機以下は、その様子を見て照準を修正していくのが普通でしたが、江草少佐は初弾を外さず、いきなり命中させたのです。 この時の艦爆隊の投下した爆弾は次々に2隻の英国重巡洋艦に命中し、53弾のうち命中47発、88.6%という驚異的な命中率を叩き出しました。戦後この数字を高く評価した作家のピーター・C・スミス氏は、「天空からの拳(写真③)」「爆撃王列伝(写真④)」に江草少佐を詳細に描いています。 午後4時58分、「敵巡洋艦2隻沈没」の報告を江草少佐機から受けた機動部隊の司令部は、南雲司令長官と幕僚が顔を見合わせたといいます。あまりにも早い撃沈に驚いたのでした。攻撃から僅か30分で重巡洋艦(1万トン級の戦艦)2隻を沈めるという、驚異的な戦果です。 巡洋艦2隻撃沈の悲報を受けたチャーチル英首相は、ショックを隠しきれず、「日本の海軍航空機の成功と威力は、真に恐るべきものだった。二隻の大切な巡洋艦が、急降下爆撃という全く別な空襲のやり方で沈められてしまった。 ドイツとイタリア空軍を相手にした我が地中海での戦争全部で、こんなことはただの一度も起こっていない」と記しています。 なお4月9日には、セイロン島付近にいたイギリス空母ハーミスを発見、空母翔鶴艦爆隊長・高橋赫一(かくいち)少佐の総指揮で攻撃にあたり、ハーミス及び敵駆逐艦、商船などを瞬く間に撃沈しています。その時の命中率も82%と高いものでした。 通常、急降下爆撃の命中率は熟練搭乗員でも25%程度といわれますから、いかに日本海軍艦爆隊の命中精度が高かったかがわかります。当時、彼らの技倆は間違いなく世界一でした。しかし、同年6月のミッドウェー海戦では、海軍艦爆隊が活躍する前に母艦が被弾し、彼らの活躍する機会はほとんどありませんでした。彼らにとってもミッドウェーの戦いは、無念極まりないものであったことと思います。 ⑧ そもそもの敗因は、敵機動部隊発見の報告を受けた第二航空戦隊司令官山口多聞少将からの、「攻撃隊(江草隊)直ちに発進する要ありと認む」との意見具申があったにも拘らず、第一機動部隊指揮官南雲忠一中将が、正攻法にこだわり、陸上爆弾を雷装(航空魚雷)に兵装転換するなどで貴重な時間を浪費してしまい、米艦載機の攻撃を受けてしまったことです。
戦局が暗転し、昭和19年2月、521空のマリアナ進出が決まると、進出前に江草少佐は家族に、「今度は湊川(注2)だよ」、「汚名を千載に残すことになっても聖子一人の信頼があればもって瞑することができるよ」、「世話をかけたなあ」、「お母様に良い子であれよ」と語ったそうです。 (注2)楠木正成の湊川の戦いのような始めから勝ち目のない戦の意 1944年(昭和19年)6月15日、「あ号作戦」が発動されました。江草少佐が率いる基地航空部隊の521空、「銀河(写真⑨)」を主力機とする通称「鵬部隊」は、陸上基地から敵機動部隊への出撃命令を下令されました。同日夕刻、江草少佐機を先頭に「銀河」8機はヤップ島を発進、サイパン島西沖の米空母群を襲撃しました。しかし、既に制空権を手中に収め、高性能レーダーと近接信管(VT信管:マジックヒューズ)を装備していた米艦隊の対空砲火は熾烈を極め、江草少佐の乗る指揮官機を含め8機の「銀河」は全機撃墜されてしまいました。 米空母「サンジャシント」の戦闘報告には、以下のとおり記述されています。



江草少佐はこの戦闘で戦死し(享年34)、死後1945年(昭和20年)1月、功績により二階級特進にて海軍大佐に進級しました。 江草大佐の墓は、高知市筆山霊苑に義兄・岡村基春の墓と並んで建っています。

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