住民税・特別徴収の事務手続き
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2025/05/12
第43回の大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 – 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身です。旧制千葉県立千葉中学校から海軍兵学校41期入校。入校時の席次は120名中53番、卒業時は118名中64番。 | |
1972年5月15日、当時佐藤栄作首相がTVにて沖縄の本土復帰を宣言している映像を、私は鮮明に覚えています。その5年後の14歳(中2)の時に、家族旅行(両親・祖母・兄・妹の6名)で初めて沖縄を訪問しました。その2年前に開催された海洋博の施設や戦跡巡りと観光の旅でした。その中で最も鮮明に覚えているのが、旧海軍司令部壕跡(写真④⑤)です。
当時は今とは比べ物にならないくらいシンプルで、大きな日の丸の国旗の下に入り口があり、そこから長い階段を地下に潜っていきました。太田實中将が自決された部屋の前では、ひんやりとした冷気が漂い、その功績をじっくり読んで感銘し、心を込めて合掌したことを鮮明に覚えています。46年前のことです。 大田中将は海軍における陸戦の権威者で、1932年(昭和7年)2月から4月にかけて上海陸戦隊第5大隊長として第一次上海事変に参戦しています。二・二六事件では佐藤正四郎麾下の陸戦隊大隊長として東京へ出動しました。 |
日中戦争では1939年(昭和14年)2月に呉鎮守府第六特別陸戦隊(注1)司令として海南島占領作戦に参加し、三亜(今の海南島)を占領します。 | |
(注1)海軍陸戦隊というのは海軍内の陸戦専門部隊のことで、米軍では海兵隊と呼ばれています。 日米とも特別訓練を受けた部隊で、精強を誇ることでも同じです。 |
大東亜戦争においては、1942年(昭和17年)5月に第二連合特別陸戦隊司令官としてミッドウェー島上陸部隊の海軍指揮官となる(陸軍部隊指揮官は一木清直:ガダルカナル島で戦死)が、ミッドウェー海戦における敗北により上陸作戦は中止、6月に隊は解隊されました。
1943年(昭和18年)2月、第八連合特別陸戦隊司令官としてニュージョージア島のムンダの守備に当たるものの、7月から始まったニュージョージア島の戦い(写真⑥⑦)で苦戦し、8月にコロンバンガラ島に撤退しました。 |
沖縄戦では、海軍最先任者として沖縄根拠地隊司令官を務め、米軍上陸時に約1万人の部隊を率いて沖縄本島小禄(おろく)半島(写真⑧)での戦闘を指揮。陸軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の1945年5月24日ごろになって初めて知らされました。いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めますが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令を勘違いしたことがわかり、5月28日には再び小禄へ引き返しました。6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されますが、大田中将は、今度は従いませんでした。命令を意図的に無視したのか、米軍に退路を断たれて撤退できなかったのかは不明ですが、5月は沖縄戦の中盤で、米上陸軍(写真⑨)によって行動が制限され、身動きが取れなかったのではないかと考えます。
沖縄での海軍部隊の戦いぶりは米国公刊戦史に以下のように記述されていま |
「小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。」— 吉田俊雄『海軍名語録』より引用 |
沖縄戦終結の17日前、大田中将が自決する直前の1945年6月6日午後8時16分に多田武雄海軍次官宛に発信した電報は広く知られています。当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えています。 私の初めての沖縄訪問は、これが記憶の中に強烈な印象で残っています。 そして返還後の沖縄に対する日本政府の厚い支援は、昭和天皇の熱い思いもあり、インフラだけでなく、年金、福祉制度全般、助成金、補助金等、他の都道府県とは比べ物にならないほどのものとなっています。 |
<現代語訳>
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。 |
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沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。 つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いする。 (沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ) |
現代の沖縄県では、米軍基地を一手に引き受けているとの考えからでしょうか、本土からの支援を当然のこととしている政治家と、沖縄を食い物にしている活動家によって、歪められているように感じます。その隙を中国共産党がついてきている状態で、非常に不安定です。 | |
しかしながら、日本国民として軍と共に戦った沖縄県の先人たちの勇気と、 愛国心は本物であったと信じています。11人の子沢山(写真⑩)であった大田中将(写真①②)が、家族にではなく、沖縄県民のために最後の電文で綴った言葉の重みを、自決を前に、沖縄県民の将来を考え、託された思いを、後世の我々はしっかりと受け止め、次世代に繋いでいかなくてはならないと思います。 大田中将の人柄は、穏やかで包容力に富み、小事に拘泥せず責任感の強い人物であったそうです。いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するような言動はなかったといわれています。 辞世の句)大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり |
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