大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㊵

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歴史編


第40回は、堀内豊秋大佐(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月27日 – 1948年〈昭和23年〉9月25日(写真①②③⑦))です。 日本の海軍軍人、デンマーク体操研究者・海軍体操の創始者(写真④)として知られます。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市出身。熊本県立濟々黌中学校卒業、海兵50期。
1944年松竹動画研究所製作の国策アニメ「桃太郎 海の神兵(写真⑤)」は日本初の長編アニメとされていますが、そのモデルは堀内豊秋海軍大佐です。 私が堀内大佐を知ったのは、有名なパレンバン空挺作戦(1942年2月14日:写真⑦⑧)の落下傘部隊(陸軍)の活躍を調べていた時です。
当時軍歌「空の神兵(https://www.youtube.com/watch?v=ZbNO1G0ifHs)」として映画やラジオで放送されました。
私は50年ほど前に、母方の祖母から歌のメロディやその意味、背景、アジアの解放でどれだけ心が躍ったかを教えてもらっており、もっと知りたいとのことで、図書館で様々な本を読み漁りました。その際に、堀内豊秋大佐率いる日本初の落下傘部隊が、陸軍のパレンバン攻撃よりも1か月前の1942年(昭和17年)の1月11日、オランダの統治下にあったインドネシアのセレベス島・メナド(写真⑧)への奇襲降下作戦を指揮し、成功を収めたことを知りました。これが日本初の落下傘降下作戦(写真⑥)だったのです。334名の空挺部隊のメナド攻略は、当時共同作戦を行っていた陸軍に配慮して、留め置かれました。祖母を始め、一般の日本国民が知らないのは当然です。
堀内中佐(当時)が、メナドを攻略した際、鎖で足を繋がれて逃げられない状態で闘ったインドネシア人兵士がメナドの6基のトーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地)を守っていました。それを命じたオランダ陸軍歩兵大佐F・W・M・ティウオン(F・W・M・Tiwom)は、この日本軍の落下傘降下作戦の際に逃げた先のメナドの飛行場で命乞いをして捕虜となっています。非道で卑怯な輩です。実はこの人物が戦後のB・C級戦犯への現地の裁判で裁判長となり、とんでもない判決を行うのです(後述)。 堀内司令官は、インドネシア兵が順次投降してきたので、捕虜にしていったん民家に収容しました。百数十人いました。みんなおとなしくしていたので、司令は彼らに休暇を与えました。1週間ぐらいの休みを出して家に帰す時、堀内司令は、『こうして元気にしていると、家族に話してきなさい』といって、貴重な塩を土産に持たせました。オランダ軍側にいたときは全く休暇など無かったとのことで、一週間の休暇が終わると、手土産を持って全員が逃げずに帰ってきました。これをみても、堀内司令が如何に信頼されていたか分かります。
このような事がきっかけで、また「ジョヨボヨ王の予言(注1)」の効果もあって、住民の間に驚くほどの早さで宣憮工作が行き渡り、落下傘降下して1カ月後には、住民たちと一緒に演芸会を開き、共に楽しむまでなりました。常日頃堀内大佐は「女や子供には手を出すな、弱い者いじめはするな」と隊員に厳しく命じていたので、ますます住民に慕われていったそうです。
メナド攻略後、後任者が着任して驚いたのは、半年ほど前に進攻し、すでに移動していた堀内司令の落下傘部隊が、原住民に深い愛情をもって語られていることだったそうです。堀内司令といえば海軍体操の発案者として既に国内では有名人です。 その後、堀内司令と念願の会見をしたときには、「罰を厳しくするよりは、罪を犯させない配慮がなにより」ということを話ってくれたそうです。現在のビジネスにも当てはまる素晴らしい考えですね。 また、腰布ひとつの島の女たちに胸を覆う布を配布し、日本兵との事故を防いだのもそのひとつとのこと。(注・当時のバリ島では男女ともに上半身は裸であったそうです)
日本軍がインドネシアに侵攻したとき、インドネシアには、医者が7万人に1人しかいなかったようです。(元バハリン・ヤヒヤ氏 インドネシア外務大臣談) そのような当時の状況の中で、堀内司令は、現地住民から無料巡回をしてほしいという要請に応えて、「責任は俺がとるから」と、先任軍医による無料巡回診療を続け、現地住民の人々に感謝されてもいたそうです。  
堀内司令とその部隊がバリ島に移動するとき、落下傘の降下地区のガラビランとラングアン地区の住民数百人が別れを惜しみ、60キロの道を歩いてメナドまでホリウチ部隊の見送りしてくれたという史実もあります。
また、古くは、堀内大佐のエピソードとして有名なものが、江田島の海上自衛隊第一術科学校が管理している教育参考館のガラスケースのなかにあるそうです。バリ島在住であったドイツ人画家ストラッセル・ローランドによる大きな油絵です。その絵にはメナド降下作戦でカラビラン飛行場に降り立った堀内大佐(当時中佐)の姿を描かれているそうです。
これは残念乍ら探しましたが見つかりませんでした。 今年は時間を見つけて広島県江田島市の旧海軍兵学校を訪れ、教育参考館に行きその油絵を観て、歴代の海軍兵学校生が鍛錬として駆け足で登った古鷹山を、年ですので歩いて登ってみたいと思います。
上記、記載の油絵の下に昭和14年11月より支那の廈門に当時少佐の堀内豊秋が陸戦隊司令として軍政に携わっていた時に、廈門駐留を継続してくれるようにと書いた廈門の152村長の連名、押印による廈門海軍司令部牧田司令長官宛の陳情書があります。廈門にて軍政に携わっていた堀内少佐は現地住民の信頼を一手におさめていました。駐留交代の知らせを聞くと、住民はこぞって駐留継続の嘆願書を現地の最高司令官である牧田覚三郎少将に出しました。さらに堀内少佐の軍政を讃えて、昭和15年10月に108人の支那人が寄付金を出し「去思碑(写真⑨)」を建てました。 堀内大佐は「おれは原住民にもてるんだよ」と持ち帰った去思碑の碑文の掛軸を可寿夫人に見せていたそうです。(1932年に南京大虐殺が本当にあったとしたら、中国人が知らないはずがありません。その中国人が石碑を立てたということは、そのような事実は無かったという証ではないでしょうか。)  
さて、そのような人格者であり、優れたリーダーでもあった堀内豊秋大佐が、何故B級戦犯として銃殺刑になったかということですが、上記の命乞いをしたオランダ人守備隊長のF・W・M・ティウオン大佐が、日本が敗戦し、捕虜収容所から解放された途端に、急に居丈高になり、自分達と違って現地で慕われていた堀内大佐に報復感をいだき、卑怯にも自ら裁判官となり大佐を銃殺にしてしまいました。 (この事は中堂観恵元海軍少将が、戦後オランダ大使館武官より聞いた話として手記に記載いています) この卑劣なオランダ人裁判長以外にも他2名にJ・H・Warowo、W・G・VAN・de Leasarを加えた卑劣なオランダ人3名によって多くの日本兵が銃殺されました。アジア人蔑視の人種差別者であったのでしょう。命を救われておきながら、恩を仇で返す行為、いつの世もこのような不埒な人物によって、罪のないかけがえのない大切な人物の命が奪われるものです。 下記の証言もこの裁判の異常さをよく証明しています。 「私は裁判長から、堀内大佐を弁護するとあなたのためによくないよ、といわれ、判決日を俟たずに帰国させられました」(昭和20年代後半名古屋大学の学生だった堀内大佐の遺児堀内一誠氏が東京都内に住む堀内大佐の弁護人だった井手諦一郎氏(注2)を訪ねた時の井手氏の証言) つまり裁判長自ら弁護人を脅迫し、強制送還していたのです。
先進国を標榜するオランダ人は先人によるこの史実を永遠に恥じなければならないと思います。  日本人としての愛と行動を形として体現された堀内豊秋大佐に “合掌” 西暦1798年以来、インドネシアを支配してきたオランダの悪政によって、主要産業は奪われ、プランテーションによって主食の米の栽培のための農地を奪われたインドネシア人たちは、餓死するものが増え、人口は大きく減少していました。 当時の日本の石油年間需要500万トンを遥かに上回る800万トンを産出するインドネシアの石油を狙って、日本政府は米英に対するのとは違い、オランダには宣戦布告をしませんでした。オランダは、当時日本の同盟国であるドイツの支配下にあったからです。
ところが、イギリスに亡命していたオランダ政府は、「日本がオランダと密接不可分の関係にある英米両国に対し戦端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告しました(これは、現地のオランダ領東インド政庁が独断で行ったもので、当時ロンドンに亡命していた本国政府がそれを追認したものと言われています)。それでも日本政府は、開戦以降のマレー半島や香港での有利な戦況を背景として、オランダ政府に対してスイス経由で工作を行いましたが、オランダ政府は進駐を拒絶し、戦端が開かれることになりました。宣戦布告はオランダから行われています。 我々の周辺国、欧州、米国など、民主主義だ、正義だ、動物愛護だ、SDGsだと主張している多くの国家とその国民は、略奪国家として歴史にその行為を記しています。
そして常に力を背景に弱小国にマウンティングを繰り返しています。 国力が衰えるということは、そのマウンティングを受け入れることに繋がるのです。明治以降の日本人は諸外国のその本質(略奪気質)に気づき、強い国、豊かな国を目指したのです。今後日本は大きく人口を減少させ、経済が縮小しかねない状況です。 
しかし小なりといえ、シンガポールやスイスのように裕福な国家を形成することも可能です。国家国益に責任を持つ政治家や官僚が増えてくること、日本人としての真実の歴史を学び、日本人であることに名誉と誇りを感じ、愛国心を育てていくこと、そして何より、資源が乏しく、マンパワーが国力の大半である日本国民の一人一人が、覚醒し、行動を起こすことが出来れば、我々が先人から引き継いだDNAを大きく発動させることが出来るのではないかと考えます。 私の命の続く限り、発信し、行動を起こしたいと思います。  
<還暦を迎え、体力の限界、気力の衰えも実感する今日この頃です。益々心の鍛錬に励んでいき、「日本を良くしたい」という自己の思いと使命を全うしていきたいと思います。>

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