大東亜戦争から学ぶリーダーシップ㉞

query_builder 2022/07/08
歴史編

 第34回は、宮野善次郎大尉(戦死後中佐)大正4年12月29日大阪府生まれです。昭和13年65期生として海軍兵学校を卒業。昭和15年4月32期飛行学生を修了。昭和16年12空配属。支那戦線に参戦しましたが、空戦の機会はありませんでした。同年10月大尉に昇進。3空分隊長就任。大東亜戦争開戦後は3空分隊長として比島蘭印航空撃滅戦に参加しました。昭和17年4月、六空(後の二〇四空)分隊長に就任。同年6月、空母隼鷹(じゅんよう)に便乗して、ミッドウェー島攻略の陽動作戦であるアラスカ・ダッチハーバー攻撃に参加しました。帰還後ラバウルに進出、二〇四空(六空から改称)分隊長、飛行隊長として活躍しました。昭和18年6月16日の空戦で行方不明となり戦死と認定されました。戦死後、全軍布告、2階級特進で中佐となりました。

私はラバウル航空隊所属の生き残った搭乗員の本を多数読みましたが、そこで必ず出てくるのがこの宮野善次郎大尉でした。肩ひじ張らない自然体で、優しい微笑みを浮かべる、頼りがいを感じる風貌、大阪の八尾中学(旧制)出身で、親戚の母校出身でもあり、自然と親しみを感じる存在でした。 映画、「連合艦隊司令長官山本五十六(写真④)」(昭和43年)で、昭和18年4月18日山本五十六大将の最前線であるブイン島・バラレ島視察の際の護衛戦闘機(写真⑦)隊長・森崎猛中尉(俳優:江原達怡・写真⑤、写真⑥の右上の士官)が護衛に失敗したことが描かれていました(海軍甲事件)。史実では、その後、森崎猛中尉は海軍上層部から、責任を取らされる形で死に場所を強制されるような危険な任務に就かされ、そのたびに、上官である宮野善次郎大尉がフォローしていたようです。海軍予備学生出身ということもあり、常に下に見られ、危険な任務に就かされる森崎中尉を宮野大尉は常に気にかけていたそうです。 予備学生出身者に対するエリート組の海軍兵学校出身者のエピソードは、過去の本コラムでも掲載しております。

(ご参照) https://brain-supply.co.jp/column/history/20211215-3825/


善戦むなしく、物量で勝る米軍のガダルカナル侵攻(ヘンダーソン基地攻撃写真⑨⑩)に対する昭和18年6月16日、山本五十六大将戦死の約2カ月後、ルンガ沖航空戦(写真⑧)が行われ、損耗率54%の被害の中、集合地点に戻ってこない森崎猛中尉を心配して、空戦場に戻った宮野善次郎大尉はついに帰らぬ人となりました。 宮野善次郎大尉(写真⑪前列一番背の高い人物)は、戦後になっても元部下達に慕われ、特に一番長く列機を努めた大原亮治飛行兵曹長(写真⑫⑬⑭前列左端)は、毎朝宮野大尉の写真に敬礼を欠かさず、「宮野隊長が生きていたらどこまでもついて行く」と言わしめる程尊敬された名指揮官でした。その大原飛曹長は、「宮野大尉が還って来ないと知った時、何で無理してでも行かなかったのかと、自分が恥ずかしかった。あんなに苦しい思いをしたことはありません。隊長がやられるほどの激戦ですから、出撃していたら、まず八割方は、私もやられていたかと思います。しかし、それまでもそうであったように、隊長機を守り通せたかも知れない。最後の出撃について行かれなかったことが、今でも悔やまれます。当時私は二十二歳、それが今、八十六歳(平成21年の手記:写真⑬)まで生きてるんですからね。あの時出ていたらどうだったかな、生きてたかな、死んでたかな、隊長を守ることができたら、その後、どんな人生を歩まれたのかな・・・・・・。 隊長が「今日は残れ」と言われたのは、お前は生きてろ、と将来の暗示を与えられたのかなと、60年以上が経った今でも、毎日、隊長の遺影の前で自問自答を繰り返していますよ」と、胸中をふり返っています。      

また、宮野大尉の四番機を務めた中村佳雄氏(八十四歳・北海道在住写真⑭前列右端)は、「宮野大尉は、まず俺がやる、俺がやるからお前たちもやってくれ、それから、死ぬな、絶対に俺について来いよ、そういう姿勢の人でした。階級や出身に関係なく、誰とでも分けへだてなく全く同じように接してくれる、あの人のいいところはそこでしたね」と語ります。 本来ならば、指揮官の仕事は、部下たちを作戦通りに誘導し、戦果を確認して、無事に連れ帰ることでした。敵機を撃墜することは部下の下士官に任せればいいのですが、初陣のパイロットが大半を占める状況ではそうもいきません。

宮野大尉は、経験の浅い部下を自分の直接の二番機、三番機につけ、出撃前には必ず、「空戦になったら俺から絶対に離れるな。俺が宙返りしたらその通りにやれ。お前は照準器を見なくていいから、俺が(機銃を)撃ったら編隊のまま撃て」と注意を与えました。 隊長自らが、まずは敵機撃墜のお手本を示さなければならなかったのです。

実際、二〇四(ふたまるよん)空のこの頃の記録をみると、宮野大尉の撃墜戦果がいちばん多くなっています。記録に残る宮野大尉の撃墜機数は、三空で単独撃墜1機、小隊での協同撃墜10機だったのに対し、ラバウルの六空‐二〇四空では単独で撃墜10機、小隊での協同撃墜1機となっています。(その他、編隊での戦果や地上銃撃での戦果は割愛)。

宮野大尉は、米戦闘機が2機、2機の4機で一個小隊を編成するようになったのに対抗するため、それまで3機が標準だった零戦隊の一個小隊を4機にし、チームワークを重視するなどの新機軸を打ち出しました。さらに、零戦(写真⑦)に爆弾を搭載した艦上爆撃機を装い敵戦闘機を誘い出したり、味方の爆撃隊が敵戦闘機の餌食にならないよう工夫をこらしたり、つねに新しいアイディアを編み出し続けました。そして、自らが考案した危険な任務には、必ず自分自身がつきました。編隊を指揮しながら敵機を16機撃墜(撃墜5機以上は「エース」と呼ばれる)した指揮官戦闘機搭乗員は少数でした。

当時、流行歌にまで謳われた「ラバウル海軍航空隊 https://www.uta-net.com/movie/43517/

(注1)作曲はNHK朝ドラ『エール』に登場した古関裕而